ルー・ケイプルという若い女性がトビーに15ポンド貸してくれと頼みに来る(リンク先の回答を使うと、2019年の現在価値で30-35万円くらい)。トビーは断り切れなくて小切手を切る。
翌日、男の声でルーが殺されたという電話がかかってきた。現場にいくと、お人好しで人を疑うことのないルーは出版社社長の家で毒殺されていた。珍しい種類の毒物を鼻炎薬と入れ替えられていたのだ。ルーはこの家によく出入りしていたが、必ずしも好意的にされていたわけではない。底なしのお人よしは住まう人たちをときにイラつかせる。というのも、社長と妻は離婚調停中。このころにはそれぞれが愛人をもっていて、互いに隠しているのではあるが、すでに秘密ではなくなっている。社長はふだんは家にいないので、妻は愛人を連れこんでいる。植物生理学者は奇妙な人格の持ち主で、毒物も研究室にふんだんにある。さらに、ルーと同居している友人もときにルーに冷たくあたることがあり、金に困っていたルーは友人の持ち物である中国陶器を勝手に売り払ってしまっていた。
さらに奇妙なことに、この家のかしこには古い短編探偵小説にでてくるようなトリック機械(引き出しを開けるとナイフが飛び出すとか、ドアを閉めると吹矢が飛ぶとか。殺人まではいかなくとも実効性のあるものばかりなので、かなり危険。捜査の途中で、社長が殺され、妻の娘(女児)も行方不明になってしまった。
トビーとジョージのコンビもの第2作(1940年)。トビーが大活躍で、本書はトビーの三人称一視点で書かれる。頭が切れて口かずの多い若者がときに無遠慮に他人のプライバシーに踏み込みながら、この一族(上記の人のほかに妻の叔父の老夫婦や医師など)の隠し事を調べていく。おおよそ警察の黙認を得ているとはいえ、私人がここまで踏み込んでいいのとは思うけど、まあいいでしょ。相棒のジョージは小男で口かず僅か。トビーを称賛しているものの、ときにいなくなり、誰もいなかったからと他人の部屋に忍び込んだりする。トビーの推理や捜査からすると、突拍子もない質問をして困らせる(でもあとで重要な問題提起だったのがわかる)。
女性の描き方はみごと。結婚後の倦怠期にはいった社長の妻の倦怠と不満、底抜けのお人よしの若い女性、頭が良いので相手の鈍感さにイラついてくる同僚、妄想癖のある老人に付き合う妻、物心がついたばかりの女児など、女声の描き分けができている。それに比べると、トビーやジョージ、警察官や学者などの男性はどこか生気のない、カタログのような人物になっている。
事件の中心は殺された若い娘にあるのではなく(でもなぜ15ポンドを必要としたのか、友人の持ち物を勝手に売ったのかなどの背景は切実な社会問題)、中年になった社長夫婦の倦怠と人生の再冒険。もう一度、ここではないどこかに出ようとして、しがらみとか持ち物のために思い通りに行かない不満と諦念。こういうところの心情が物悲しい。
1940年作というのに、イギリスの社会状況がほとんど反映されていないのが驚き。すでにナチスとの闘いが始まっていて、ロンドンも空襲を受けていたころ。同じ時期のカーにもそういう描写はなかったので、作家たちはエンターテインメントに徹することで、読者を慰撫しようと考えていたのだろう。それも見識であり、戦時体制でも表現の自由に介入しない自由主義を徹する国家だった。
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