odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

H・G・ウェルズ「透明人間」(青空文庫)

 今回読んだのは海野十三訳の青空文庫版。たぶん戦前訳だと思う(海野は敗戦後断筆)。ジュブナイル向けらしいので、どの程度原作に忠実なのかは不明。戦前訳では都合にあわせてストーリーを変えたりするのはよくあることなので。
 イギリスの田舎にあるアイピング村の黒馬旅館に奇妙な客がやってくる。コートを着込み、帽子を手放さず(室内でかぶっているのはマナー違反)、マフラーで顔を隠し、サングラスに手袋を離さない。おかみさんがつっけんどんな応対をするが、客は気に入ったらしく、長期逗留することになった。翌日にはさまざま実験器具に書籍の膨大な荷物が届く。それを部屋に運び入れると、だれにも中に入れさせないで、終日実験をしているらしい。おこりっぽい客は時に癇癪を起して、室内で暴れるのでおかみさんたちは怖くて仕方ない。客の金回りが悪くなるころ、村の牧師館に泥棒が入る。どうやら旅館の不審な客らしいということになり、人だかりがする。客は突如、服を脱ぎ、旅館を脱出。
 途中、間の抜けたトーマスを使いっパにして、研究ノートを盗ませるなど、画策したが(ドラキュラ伯に対するレンフィールドの役回り。彼ほど忠誠ではなかった)、失敗し銃弾で撃たれ、ケンプ博士の部屋に逃げ込む。そこで不審な男は「グリフィン」であると名乗り、かつて大学の研究室の同僚であった博士に自分の過去を語る。それによると、光と反射に関心を持った男は血液を無色化することに偶然成功する。それを進めるうちに、身体を透明にすることができた。そのときには家の身代を傾かせるほどの資金を使ってしまったために、父の怪しむところとなり、逃げださなければならなくなる。困ったことに身体の透明化は不可逆的であり、逃げ先で元に戻す実験を行ったが成功しなかった。全裸でいなければならないならばアフリカにでもいこうと考え、博士の協力を仰ぎたいという。そのときには、博士の送った手紙を読んだ警察がやってきて、透明人間を追跡する大捜査が行われる。
 人間の身体が別のものに変わるのは、神話や民話にある(「ニーベルンゲン」の隠れ頭巾など)ので、ウェルズの創意であるわけではない。そのうえここでは変身が科学実験によるのであるとされているので、シェリー「フランケンシュタイン」やスティーブンソン「ジキル博士とハイド氏」の直系にある作品にほかならない。たいていは科学の悪用とか人間心理の暗黒面などにフォーカスするようだが、自分はほかの視点で読んだ。
 これは人種差別や民族差別の発生過程を詳細に描いた小説。すなわちアイピングという共同体に、外見の異なる異人がきて、異人であるがゆえに共同体から排除される。この当時にはすでに肌の色の異なるアフリカ系やインド系の人々が差別にあっているわけだし、定住先をもたないロマの人々もそうなっていた。透明人間はまさに肌の色をもたない(白くない)という理由で、仕事と定住地を持たない独身男性であるという理由で、共同体になじまないという理由で、村の人々の不審を浴び、排除の対象になる。透明人間への嫌疑は牧師館の窃盗であるのに、リンチの様相を呈する。それも彼の外見と横柄な口のきき方のせい。
 もうひとつは誰も透明人間の名前を知らないし、知ろうともしない。個人の特性には無関心で、属性にだけ感心をもつ。ここらは差別する側の心理をよく示している。ケンプ博士のところに逃げ込んだときも傷害と暴力沙汰の容疑くらいであるのに、警察は銃を用意する。そのうえ、町を封鎖し、自警団を作らせ(「宇宙戦争」でもあったなあ)、素足に傷を負わせるためにガラスの破片をまく。このような過剰な防衛が行われるのは、まさに透明人間が異人であることによる。透明人間はなるほど粗暴であるが(そのうえ「グリフィン」という怪物の名を名乗る)、ハイド氏のような連続殺人を起こしていないのだ。それなのに排除されるのは、彼の外見の特長に由来する。「透明人間」はSFかホラーであるが、自分には彼を取り巻く共同体の排除と差別のほうに恐怖を感じた。

 予録。
 書かれた1897年は、光学の議論が盛んだった。光には波動説と光子説があって、決着がつかない。光伝搬の媒質としてエーテル(同名の有機物とは別物)が宇宙に充満していると考えられていた。そういう時代の科学的な発想力が背景にある。
 透明人間は一時的な逃げ込み先に「デパート」を選んだ。そこには生活に必要な衣食がひとつのビルに集まっていた。デパートはこの時代には、もうあったんだ(!)。デパートのような高層ビル(といっても5階程度)はエレベーターがないと稼働しない。そういうテクノロジーと配電システムがこの時代にはできていた。ホームズものなど1890年代のイギリス小説が今でも読めるのは、その時代の生活様式や社会のシステムが現在とほぼ同じであるから。1890年より前や同時代のアメリカや日本の小説を読むのが困難になるのは、これらが現在と分断されているからで、何らかの知識を得て想像力を働かせなければならないからだろうなあ(まあ、日本文学では文体や語彙の違いも大きいけど)。