odd_hatchの読書ノート

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日本古典「中世なぞなぞ集」(岩波文庫)

 「なぞ」とは「何ぞ」という問いかけの言葉に由来する、とのこと。本書で言えば「天狗のなみだ、何ぞ」と問いかけ、相手はその答えを考えなければならない。こういう言語遊戯の由来や起源を詮索しても詮無いことであるが、古代からすでにあるという。もとは神秘を伝えるものであったらしいが、次第に言語遊戯に代わる。古典や古語に通暁していないと問題を作れないし、解くほうもそれに匹敵する教養をもっていないとバカにされる。というわけで、なぞは教養と余暇のある階級でないと遊べない。中国の古典の影響を受けて、奈良や平安の宮廷で行われている。というのも、そのような階級が生まれたのは古代の全国統一の国家ができて、生産にはかかわらず国家運営に専念する階級がそのころ生まれたからだ。この階級は歌の交換や物語の回し読みをしていた。
2012/02/16 土田直鎮「日本の歴史05 王朝の貴族」( 中公文庫)
2016/04/15 堀田善衛「定家明月記私抄」(ちくま学芸文庫) 1986年
2016/04/14 堀田善衛「定家明月記私抄 続編」(ちくま学芸文庫) 1988年
森谷明子「千年の黙(しじま)」(創元推理文庫

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 さて、本書に収録されているのは、室町から江戸初期にかけてつくられたなぞのアンソロジー。なぞの愛好家になり、情報を交換しているなかに、筆まめな人が記録していったのだろう。それを別の誰かが筆写して、普及していく。上の参考エントリーにあるような、宮廷文化が鎌倉幕府成立後も継続していたのがわかる。ただ、このころになると宮廷も資産不足で平安時代までの鷹揚な生活ができなくなり、武士からの上納金を当てにしないといけなくなり、政略結婚のネットワークは広がる代わりに、知的レベルは落ちる。それは本書を読めば如実で、たいていのアンソロジーとは逆に、あとになるほどなぞの出来が悪くなる。一つの理由が、なぞの言語遊戯に武士が加わるようになり、古典や古語の教養の代わりに彼らの日常言語がはいるようになること。論理の飛躍が小さくなり、奇想天外な発想がしにくくなること。なぞの通俗化が進むわけだね。
 いくつか中世のなぞを引用。

「はは(母)には二たびあひたれどもちち(父)には一どもあはず」 「くちびる」
(古代から中世にかけて、日本人はハ行をfで発音していたことを示す例としてよく引用される)
「古てんぐ」 「こま」
「天狗のなみだ」 「まないた」
「背中の後ろは駒の住処」 「はらまき」
「武蔵野ははてもなし」 「むさし」
「まろき(丸き)もの」 「すみとり」
「うみのみち十里に満たず」 「はまぐり」

 なぜこの解になるかは本書の解説を読まないといけない。古典や当時の習俗の知識がなくてもわかるものもあれば、解説をみてもわからないものがある。たんに読んで楽しむにはそれで十分で、毎日数ページを読んでちびちびと味わえばよい。
 中世のなぞは「〇〇、何ぞ」「✖✖」の形式だったが、江戸時代になると、「〇〇とかけて、△△と解く。その心は✖✖」に変形する。いまでも落語の界隈になぞかけとして残っている。
 日本人の作ったこばなしになると、偏見や差別が露骨に表れて、嘲笑が下卑たものになるけど、本書ではそれはない。知識階級の美意識か矜持か。不快な気分にならずに済むのは助かる。

 一点不満があるのは、同じ謎が繰り返し出てくるとき、本書では解説を書いた前掲ページだけ表示するにとどめる。すでに答えを忘れているときは、ページを繰って確認しないといけない。この手間を省くには紙の書籍という形式はうまくない。といって電子書籍でも実現は難しい。よい表示形式が生まれることを望む。

ホルヘ・ルイス・ボルヘス/アドルフォ・ビオイ=カサーレス「ボルヘス怪奇譚集」(晶文社)