odd_hatchの読書ノート

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アガサ・クリスティ「象は忘れない」(ハヤカワ文庫)

 探偵作家のアリアドニ・オリヴァは、奇妙な依頼を受けた。名付け親になった(その事実すら記憶はおぼろ)シリヤの結婚のことだが、彼女の両親は12年前に心中事件を起こしている。その際、父が母を撃ったのか、それとも母が父を撃ったのか明らかにしてほしい。なんとなれば、当のシリヤが自分の養子の息子と結婚することになっているから。アリアドニはポアロに相談し(ジョージという従僕と二人暮らしで、ヘイスティングが出てこない)、それぞれ独自に調査してみようということになった。なにしろ、12年前。関係者の多くは高齢者。ポアロの名声を知っているものはすでに鬼籍にいる。うまくいくのか。
 というわけで、初期高齢者のアリアドニが素人探偵のまねをする。この女性、物覚えは悪く、家の中を乱雑にして家政婦を困らせるという独善的な、でも愛嬌のあるお婆さん。きびきびと動くことはできず、おしゃべりもあっちゃこっちゃに飛ぶという次第。相手も似たような人たちなので、なかなか情報は得られない。なにしろ、250ページ(2003年の文庫版)までほとんど情報がでてこないうえ、アクションが起こらないのだ。アリアドニが誰かを訪問する、ポアロが誰かを訪問する、アリアドニがポアロに報告する。それだけ。しかも、会話のことごとくを克明に記録する。この冗長さにはへこたれる。なるほどクリスティの作品の魅力のひとつは生き生きとした会話でであるが、かつて30-40代の作品であれば、確信とその周辺を記述して、次の章に行くものだが、それがない。厳しい。
 ようやく手掛かりがでてくるのは、シリヤの両親の主治医を訪れたとき。そうすると、シリヤの母には一卵性双生児の妹がいて、精神疾患で入退院を繰り返し、事件の数週間前から夫婦の家に同居していた(シリヤは寄宿学校にいたため知らない)。心中事件の10日ほど前に、妹は海岸の崖で転落して死亡していた。家からは4つのかつらが見つかった(1960年前後の英国女性にはかつらが流行っていたという)。

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 まあ、現代の科学捜査からすれば、この事件の真相が隠されることはありえないのだが、クリスティの主眼はリアルな描写に基づくミステリーを書くことにはない。前作「復讐の女神」同様に、ギリシャ神話のような人間存在の神話的なありかたを書くことにある。ここでは男女の愛。事件が過去のものであり、彼らの心情を代弁したりうわさしたりする人がいなくなっているために、彼らの愛は言葉で語られない。彼らの行動が明らかになったあとに、行動から浮かび上がるような仕方で見えてくる愛。死から遡行して生前を想像することによって浮かび上がる愛。それはおのずと神話のごときものにならざるを得ない。
 それに呼応してか、ポアロの存在も抽象的。かつての嫌味やひがみ、誇大な自尊心が影を潜め、人間性の詮索をすることもない。真相を明らかにしたあとは、人間の悲劇に憤ることなく、生きているものにわずかなアドバイスを贈るにとどめる。正義や法を実践する、あるいはその代弁者となる探偵であることはやめ、祭祀のように悲劇を報告するだけ。人間に興味をほとんどもたなくなってしまった。これがポアロの最後の事件(この後出版された「カーテン」の執筆時期は1940年代)。
 年を取るとはこういうものか。だんだんこのときのポアロの年齢に近づいてくると、ここに書かれる高齢者のありかたが切実になるなあ。