odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

樋口陽一「リベラル・デモクラシーの現在」(岩波新書) リベラルデモクラシーは公共社会の構成原理で身分制からの解放思想。

 憲法学の泰斗による講演を編集加筆したもの。リベラルデモクラシーは公共社会の構成原理。でもリベラルの権利からの自由(議会制)と、デモクラシーの人民による意思(民主主義)は相いれないところがあるが、身分制からの解放思想ということで両立させる原理として使われている。最盛期は1945-80年くらいまで。そのあとネオリベラリズムリバタリアン)とイリベラル(非自由、不寛容などで構成するのはレイシストファシスト、排外主義者など)から攻撃を受けるようになっている。そういう状況認識で、リベラルを続ける思想を提示。
 著者の憲法に対する考えは下記エントリーを参照。
樋口 陽一「個人と国家―今なぜ立憲主義か」(集英社新書) 2000年

Ⅰ リベラル・デモクラシーの展開,そしてその現在―― 一九四五‐一九八九‐二〇一九 ・・・ この章のサマリーは上を参照。リベラルの核心は個人の尊厳で、心の自由は制限がない(かわりに内在的な制約に服する)、経済的自由(居住、職業選択、財産権)は「公共の福祉」による制限がある(国は自由が実現する枠組みを提供しなければならない)。なるほどではあるのだが、ヘイトスピーチでは表現の自由を制限することがあるので、書き替えられなければならない。1980年代からネオリベが登場。自己責任、小さな政府、企業の独占容認(リベラルは独禁法で規制している)。イリベラルは極右・排外主義。(最初に自由主義国でイリベラルが台頭したのは東欧だが、民主化後の人口流出が背景にあるそう。受け入れた西側諸国で排外意識になり、エリート層が流出した国ではナショナリズムが台頭という動きになった)。これらネオリベとイリベラルが合体してリベラルを攻撃している。。あと日本の1955年体制は、複数の小政党が合体している自民党(政権ごとに党内の派閥が連合を組む)と野党の社会党が安定した議席をもつ多党制だったという指摘が面白い。高度経済成長は多党制で後押しされたとのこと。もう一つのトピックは君主の「神聖不可侵」は、君主は訴追されないという法的用語の慣用句なんだって。そこには宗教的な意味合いはない。日本の右翼は字面にとらわれて誤読しているのだね。また1889年の帝国憲法発布後の帝国議会はきちんと立憲主義やリベラルデモクラシーを理解した答弁があった。それがおかしくなるのは立憲党が選挙で大敗した1932年。その後右翼のテロが相次いで軍人政治になる。やはり選挙は大事。

Ⅱ 戦後民主主義をどう引き継ぐか――遺産の正と負 ・・・ 日高六郎の仕事の紹介。自分はあまり良い日高六郎の読者ではない。
日高六郎「1960年5月19日」(岩波新書)
日高六郎「戦後思想を考える」(岩波新書)
 なので、トピックをメモ代わりに
・日高は日本の精神を「凝集と緊張」と表現する。「醇風美俗」によくあらわれる。これは家を中心にしたうちには凝集、世間のような外に対しては緊張(敗戦直後にはヤミと隠匿として現れていた)。この私的領域での倫理は公的領域の国家目的である「国体」でも同じ。天皇を中心としたうちには凝集、外国とマイノリティの外には緊張(国体の意味はずっとわからなかったが、この説明ですっきりした。いずれも個人の人権がないので、凝集と緊張は差別と暴力を伴う、というのは俺の感想。)
戦後民主主義は高度経済成長に伴って、生活保守と快適の哲学になった。(これを21世紀にレイシストファシスト・極右が簒奪して、生活保守と快適のために尊皇攘夷と排外主義が必要と逆転させた、というのは俺の感想。)
憲法9条戦争放棄は日本への懲罰的意味を持っていたが、それを国民は故意に忘れた。(これは憲法押し付け論をいったん受け入れたうえでの護憲論。日高は護憲派改憲派と戦え、同じことを繰り返して言えという。レイシストファシストが決着のついたことを繰り返すことに対応する戦術だ。)

Ⅲ 「近代化モデル」としての日本――何が,どんな意味で ・・・ 自民党が2012年に改憲草案を出して審議入りをもくろんでいるが、これはネオリベとイリベラルの要素をリベラルデモクラシーに入れようとする策動。国体と醇風美俗を憲法に盛り込もうという陰謀で、個人の尊厳や人権が制限され、立憲主義に反する内容。リベラルデモクラシーは公共社会の構成原理だから、異質な対立するものをごっちゃにすると公共社会の基盤が壊される(自民党は加憲しても現状は変わらないとしているが、それはフェイク・捏造・ごまかし)。なので、自民党の主導で改憲のテーブルにのってはならない(ネオリベやイリベラルは「対案を出せ」と言ってくるが、「改憲しない」「自民党案は拒否」が対案)。
 この章にあったトピックでは、日本には個人が存在しないがあった。同意。俺の感想では、私小説などに出てくる個人は家制度に対抗するための「我」であって、公的自由(@アーレント)を行使し楽しむ市民ではない(夏目漱石「私の個人主義」はめずらしい。でも公的自由には言及がなかった気が)。加えてそのことを明治10年代の自由民権運動はよくわかっていて、当時の書物は正しく立憲主義やデモクラシーを理解していた。ただ文語体なので現代には読みずらい。それを思うと、言文一致体の定着と私小説の流行は立憲主義やデモクラシーの理解を退化させたのではないかと思う。それくらいに過去の書物は良い内容だった。

 

 ネオリベとイリベラル、および国体と醇風美俗の概念はネトウヨをよく説明できる。ネオリベとイリベラルが合体してリベラルを攻撃するのはSNSでよく見かける風景。ネオリベとイリベラルは区別できないように一体化している。その中心主張が国体と醇風美俗。ネトウヨがしきりに国民の美徳を崇めるのがよくわからないことだったが、なるほど皇室と家を中心に人々を凝集させるために美俗を押し付けようとするのだね。つまるところは身分制社会の復活が目的だ。外とマイノリティに対しては排除と差別になるわけだ。これは表裏一体の構造になっている。権力を行使する側にたって他人に命令する快感を得たいのだろう。また、イリベラルがデモクラシーをやっているのは「在特会」を見れば明らか。党員は「党首」の主張に全面賛同して、一般意思でもって独裁を受容している。あの組織(に限らずネトウヨやカルト宗教のつくる権威主義的な組織全般)ではルソーの民主主義が見事に実現していて、一般意思において同質な集団によるデモクラシーになっているのだ(なので集団に入っていない異端者やマイノリティ、外国人のような異質な者には差別と排除を実行する)。
 そういう分析を妙を楽しむところで終わってはいけないわけで、ネオリベやイリベラルを多数派にしない活動(@アーレント)が必要。