odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

東野圭吾「人魚の眠る家」(幻冬舎文庫)

 医療用機械を製造しているメーカーの社長一家。円満な夫婦に見えたが、亀裂がある。離婚しようかという話のさなか、娘4歳がプールでおぼれ脳死と判定された。脳死を認められない妻は、娘を引き取って介護をし、社長は自社の開発チームの一部を娘の機能回復をめざす機器の開発にあてた。それから4年、娘は人魚のように美しかった(しかし目を開けない)。でも、21世紀の技術を結集しても身体に損傷は加わっていく。夫婦は娘の二度目の死を受け入れることができるか・・・
 2015年に書かれた医療SF小説。SFにあたるのは、機能回復の技術にあたる部分。おもに微弱な神経電流を検出して、運動刺激に変換すること。そうすると、瞼の痙攣や口もとの反応が起こり、さらには指や腕の一部を動かすことができるようになる。これらは開発中なのだろう。詳しい説明が出てくるのは作者が取材した結果だろう。(その代わり、食事の摂取、自発呼吸が無い状態での呼吸、血流維持などがごっそり説明から抜けた。おかげで、俺はこの夫婦による支援では残念ながら早晩アポトーシスが始まるはずと思って、楽しんで読むことができなかった。)
 脳死の判定基準は1980年代にできて、いまでも踏襲。ここではそのような「死」を認めない人がいた場合、どこまで死体を家族の専権事項にすることができるか。上に言ったように、現状では起こりえない事態ではあるが、思考実験としてはありうる。でも、この問いはとても日本的。俺の知識ではせいぜい西洋と比較するしかないのだが、日本では身体をとても重く見る。事故が起きた時に、死体を回収することはとても大事。2011年に起きた震災の行方不明者の遺体捜索は10年後にも行われている。WW2の戦死者他の遺骨の収集にも熱心。大規模事故でも死体の回収と分別を行い、遺族に返すことをとても熱心に行う。でも、西洋ではそこまで肉体に固執しない。むしろ魂の行方を気にする。そういう身体の死生観違いがあるので、脳死を死と認めない人々は身体のありかたにとても執着する。
 もうひとつおもうのは、身体に対する決定権をだれが持つかという問題。ジョン・ロックの「市民政府論」で驚いたのは、彼は精神・魂が身体を所有していて、身体をどうするかの決定は精神にあるとする。だから、手術などの身体介入は自己決定することが重要であるし、マルクスの労働価値説の根拠にもなる。でも、本書の状況では身体の決定を家族、ことに父と母が行う。ここは強烈な違和感。もちろん、死者が生前に意思表示をしていないとか、未成年で判断力が不足しているから親権が重要であるとかの事情があることは承知。それでもなお、身体をどうするかの決定が他人に任されるのには違和感(論理的に説明できない不快感)がある。
 というような民俗学形而上学の議論を深めることができそうだが、あいにくここでは情緒的な反応でおしまい。まあ、上に言ったようなアポトーシスが遅延して起きたので、夫婦は娘の身体をいつまでも所有することはしない。でもそのきっかけが「人魚」の娘がいるということで息子がいじめられていることを知ったから。いずれにしても夫婦自身が考え抜いて決断したのではなく、世間や周辺の人々の反応に合わせたのだし、決断を先送りしているうちに当の身体が限界を迎えてしまった。ただ4年間も死者と向き合うことは、死に対する夫婦の気持ち(否定、逡巡、懐疑、怒りなど)を整理し落ち着かせるには十分であった。
 こういう結末の付け方をみてもとても日本的。そういえばドナーや家族が臓器の行き先を気にしたり、どこかで一部が「生きている」と考えるところも日本的だなあ。
 読んでいる間はたいして感心しなかったが(エドガー・A・ポー「使いきった男」海野十三「俘囚」のような人体改変ホラーを予想していた)、感想を書くのは楽しかった。本書が書かなかったことを補足することになったからだろう。
<参考エントリー> 日本初の臓器移植手術を取材したフィクション
渡辺淳一「白い宴」(角川文庫)
 娘を生かしておこうとする妻は臓器移植との関係を考える。飛ばし読みに近かったので、妻の懐疑がどこにあるかはよく覚えていないが、外部から身体に介入し改変するという点では「人魚」にやっていることと臓器移植に差はない。問題は上にも書いたけど、介入の決定権者にあると思う。

   

 映画になっているみたい。