odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

野阿梓「凶天使」(ハヤカワ文庫)

 小説の背景にあるのは、西洋の神秘主義。なので、上帝、天使、女神、竜など霊界の存在が説明抜きで現われ、彼らは地上界と行き来できる。名前はキリスト教由来のものもあれば、イスラム由来、ゲルマンやケルトの神話由来のもいたり。無節操ともいえるが、西洋神秘主義の伝統から切り離されているアジアの住民にはいずれも相対化できるのだろう。

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 上帝が熾天使に霊界戦争を回避するよう命じる。悪竜ジラフが久々に目を覚まし水妖たちと戯れた際、竜の逆鱗にふれたために意識も意図もなく殺戮をしてしまったのである。激怒した水妖の母である女神アフロディトがジラフを匿ったと思われるオーディンに宣戦布告する手はずを整えていた。そこで熾天使セラフィーはアフロディトを仲裁するのであったが、アフロディトの条件は一月以内に悪竜ジラフの心臓を持って来いというものであった。そこでセラフィーはジラフの逃げ込んだと思われる人間界を捜索するのである。人間の時間と空間を超越したセラフィーは、人間から見てあらゆる時空間を行き来し、神秘主義者(フランセス・イエイツ、テイヤール・ド・シャルダン、ティコ・ブラーエ、ジョン・ディーら)と接触しながらジラフの痕跡を探す。
 もう一つの物語は、シェイクスピアハムレット」の物語。これを王子ハムレットの友人であるホレイショ・シャトオブリアンの眼から読み直す。すると、11世紀?のデンマーク王国バルト海とゲルマン地域で貿易を独占したいハンザ同盟の商売敵であった。王国はスウェーデンやイギリスと同盟を組み、海上貿易をおこなっていたのである。麻薬におぼれていたホレイショを救ったハンザ同盟の目的は、ハムレットの旧友であることからホレイショを使って王国の内部に侵入させ、王ハムレットを亡き者にすることであった。いやおうなしに従うホレイショは首尾よく侵入し旧友と再会を楽しむのもつかの間、短期間の間に王族の間に連続殺人が起こるのである。すなわち、王ハムレットが毒殺され、重臣ポローニアスが混乱に乗じて刺殺され、ハムレットの子を孕んだオフェーリアが溺死する。先王ハムレットの後継になったのは弟クローディアスであるが、息子ハムレットが決闘する現場で毒殺されたのであった。王権の空白は王国自体の危機である。幾重ものしがらみをもち、だれからも信頼されていないホレイショはどのように事態を収拾するか。失敗すれば命はない。
 このような「ハムレット」の読み替えがおもしろい。四半世紀よりさらに前に読んだので細部はすっかり忘れてしまい、いくつかの評を思い返せば、悩める王子ハムレットこそが近代的自我を持つとされるのであるが、ここでは単純で深みのないボンボン。代わりに世界に居場所をもたず(その理由も語られているがここでは略)、どの場所の道徳にも善悪判断にも関係しないホレイショこそが、神の摂理を信じないために、理性と論理を使える近代人なのである。キリスト社会から放逐され、イスラム世界から追われるホレイショは、世界の間に生きることになり、誰の支援も受けられず、己の理性と知識のみが頼みとなるというわけか。ならばこそ、先王ハムレットの死以降、次々と訪れる不可解な死の謎を論理的に解くことができるのである。
 そのような小説(戯曲)内の物語が、セラフィーによるジラフ追跡劇につながる。二つの物語はレベルが異なり、隔てる壁は容易に破りがたいが、彼らが霊界の人物であるということで霊界-人間界-イマジナリーな世界の行き来は容易に行える。こういう小説内でレベルを分かつ壁を破る方法は初出の1986年には珍しいといえる(PCとネットをガジェットにして手続きを簡略化したギブソンニューロマンサー」は1984年、翻訳1986年)。そうであるからこそ、前半に神秘主義者を訪ね歩いたセラフィーはようやくシェイクスピアのもとに行き、発足直後の地球座(グローブ座)の旗揚げ公演用の悲劇「ハムレット」の執筆に呻吟するシェイクスピアに援助を申し出るのである。
 解説には耽美小説との旨が書かれているが、なるほど男性同士の恋愛ほかがある。ヘテロの俺からすると、よくわからないので、おそらく未発見の人間の性における恋愛様式が書かれているのだろうと推測。作中には、人間の超越、国家などの考察もでてくるが、30歳そこそこの作者の議論は青臭く読者の物理現実の理解には役立たないので(神秘主義全般がそうだが)、そこは飛ばし読み。
 上にまとめたような既存物語の読み直しや探偵小説趣味、伏線を回収して大きな物語をつくりだす技量は見事でした。最後は閉塞状況で終わるが、自分が妄想するに、ここからピーク「ゴーメンガースト」やワーグナーパルジファル」が始まる。なので小説は閉じていないで、開いているのだ。