odd_hatchの読書ノート

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現代思想2002年2月増刊「プロレス」(青土社)-1 プロレス人気が凋落して関係者が自信喪失したから生まれた「プロレス問題」

 2002年の雑誌「現代思想」の増刊。「現代思想」で「プロレス」とは面妖な。と、首をかしげる前にその前の10年の歴史を振り返る。転換期は1980年代なかばから。
 それまで新日本と全日本と国際と全日本女子だけが国内のプロレス団体であった。プロレスを語ることは猪木か馬場かを語ることであった。そこに、UWF、FMW、ジャパン女子、ユニバーサルなどの小団体が旗揚げし、いきなりプロレスのジャンルが「リアル・ファイト」、デスマッチ、ルチャ・リブレなどへと拡散する。そして猪木が引退し、馬場(と鶴田)が亡くなって「昭和のプロレス」が2000年までに終了する。一方、衛星放送、ケーブルテレビの登場でアメリカのプロレスがほぼリアルタイムで視聴できるようになった。まずは業界内部の変化。
 それと歩調をあわせるように、K-1、UFC、PRIDEなどのプロレス色のある演出をする「リアル・ファイト」「マーシャルアーツ」の団体が大人気になる。プロレスが使えない大会場で1万人以上を集める興行を成功させ、プロレス放送がなくなったテレビのゴールデンタイムで放送された。そのうえ、プロレスラーがこれらの「リアル・ファイト」の興行に出場して、ほぼ全員が負けるという「失態」が続いた。業界外部からのプロレスの「侵略」が行われていた。
 それまで週刊プロレス、週間ゴング、週間ファイトなどの専門誌で活字プロレスと銘打ってプロレスを語っていたのが、パソコン通信やインターネットによって素人が自分で語るようになり、専門家や記者の言葉を必要にしない状況ができていた。語る場の拡散と専門家の権威失墜。
 そこにおいてプロレスというジャンルがなくなるのではないかという危機意識が生まれた。以上の問題意識で、哲学や社会学などの研究者、作家などのプロの書き手、専門記者、選手によるプロレスの研究が行われた。ジャンルの危機で定義が揺らいでいて、関係者らの自信喪失が「問題」を生むことになったと妄想。
 この特集では、おおきく5つの問題領域が設定されている。便宜上ABCを俺がつける。A.プロレス空間への招待。B.プロレスの哲学的考察。C.プロレス/プロレスラーの光景。D.プロレス史。E.プロレス空間の変容。F.その他。以下の論文、エッセイはアットランダムに並んでいる(と思われる)ので、著者の後ろにABCの区分を追加した。

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プロレスと社会(ターザン山本香山リカ)A ・・・ プロレスがなくなるかもしれない、わからないものとして存在しているプロレスが消えるかもしれない。そういう焦燥感のある中での対談。K-1、PRIDE、ミスター高橋「流血の魔術」、馬場さんの死、四天王プロレス、ノアの旗揚げ、小川直也。(ターザン山本の発言はぎりぎりのところで真相を隠している。柳澤健「1964年のジャイアント馬場」(二葉文庫)の暴露によると、昭和の終わりから平成5年ころまで週刊プロレス全日本プロレスのプロモートと対戦カード作成をしていた)。

ロープワーク、流血、反則(ターザン山本)A ・・・ 1990年代の「活字プロレス」の推進者。いま読むと支離滅裂。

バチとの出会い(香山リカ)A ・・・ ジャイアント馬場死後に全日本プロレスとノアに分裂したことを、ハンセンやモスマン太陽ケア)の証言から検討。「バチ」と「出逢い」がキーワードだそうな。

イノキの普通(村松友視)F ・・・ アントニオ猪木の思い出。

神々の演劇(澤野雅樹)B ・・・ 純粋格闘技を追及すると「私闘」の「殺人」になるので、観客をいれると格闘技にも暗黙のルールができて、興行からするとプロレスのいかがわしさは正当な理由をもっている、とでも要約できるかな。当時K-1、Pride、UFCなどの格闘技に負け続けだったプロレスを援護するもの。と同時に、1960~90年までのプロレスを懐かしむ(なのでWWEのプロレスはぼろくそ)。

相撲と無知(佐々木正人)F ・・・ 生体心理学者が身体と運動をみる。ある一瞬の身体と運動を語ることの困難について。

「ほんとうの本物」の問題としてのプロレス(入不二基義)B ・・・ 自身がアマレスをやっていて大会にも出場する哲学者。プロレスには「ほんとうの本物(の強さ)(現実には不可能な超人的技術や力、現実の喧嘩を越え出てしまう殺伐・いのちのやりとり)」を獲得したい欲望があるが、現実の制約でできないし、何かでそれがおきると新たな限界線・境界線が引かれて、常に「ほんとうの本物」が「ここ」から消えてしまう。そういう<外(ほんとうの本物)>があるからプロレスの境界線を引く行為が続けられる。これはルールが明確な他の格闘技にはない特質。なのでプロレスと格闘技は別物。(ああ、なるほどとひざを打ったが、ここには観客の関与の議論がないなあ。実際にプロレスすることはないが、見続け金を払い続ける観客はいったいどのように関与しているのかな。限界線・境界線を引くのは暗黙の了解をもっている興行の側にいるひとたちだし。)
(「ほんとうの本物」が現出したと思われるUFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)でも、目つぶし・噛みつきのみ禁止のルールが実行されたのは4回大会くらいまで。けが人続出・失神した選手への攻撃が行われてから、レフェリーストップや延髄へのパンチ・パーテレポジションの選手への顔面打撃禁止などのルールが追加された。決定的だったのは、1995年ロシアのアブソリュート大会で選手の死亡事故が起きたこと。それからはもっと厳しいルールになった。かように、「ほんとうの本物」が現れかけた途端に、限界線・境界線が引かれて、「ほんとうの本物」は外に追いやられてしまう。)

プロレス社会学への招待(小林正幸)B ・・・ 1990年代のプロレス論のサマリー。特に演劇論的アプローチ。それでも「最終的帰結の不在」であるプロレス。

木戸修の髪型について(澤野雅樹)F ・・・ 髪を掴んだ攻撃をしない「暗黙の了解」(さらに加えてアンドレ・ザ・ジャイアントキラー・コワルスキーブルーノ・サンマルチノらも)。

光を聴け!声を見るな(柿本昭人)B ・・・ 日本のプロレスの熱狂。格闘技の技の流れとプロレスの技の停止(宙づり、見栄)。そこからの受け身の違いについて(護身と相手の技を見せる)。(プロレスとリアル・ファイルの二分法がでてくる)

 

 これだけ言葉を尽くしてもなお、プロレスを語ったことにはならないというもどかしさ。社会学や哲学のアプローチをしても、そっからすりぬけるプロレスのあいまいさ。不在の中心のまわりをぐるぐる回っている(アドルノ的)のか、そういう中心は瞬間現れて消えるのを目撃する(ジャンケレヴィッチ的)のか。まあ、そんなある=ないに魅了され続ける。
 たとえば、こんなことを考えてみた。スポーツでは、試合のすべてのプレーは分解でき、数値化して評価することができる。マイケル・ルイス「マネー・ボール」(RHブックス・プラス)にあるようなやりかたですな。そうするとそのスポーツは個々のプレーの総和であり、そこに関与したチームやプレーヤーの評価が可能になる。さらには現実には対戦したことのないプレーヤーやリーグの枠を超えたプレーヤーを並べて評価することも可能になる(歴史的制約で加減算や保留がつくけど)。でもプロレスはそういうわけにはいかない。個々のプレーの総和をプレーヤーの評価にするわけにはいかない(いったい一試合あたりのドロップキックの回数で優劣がでるのか。ヘッドロックスープレックスにどのような難易度をつけられるのか)。過去にはレフェリーのほかに審判がついて、時間切れ引き分けの際は審判の採点で判定をつけるプロレス試合があったが、一般的にはならなかった。そういう数値化・客観的な評価基準を作れないジャンルなのだ。それではほかのスポーツや格闘技のように語ることはできない。
 あと、プロレスをカーニバル理論でみるときに、選手と観客の「支配的イデオロギーから自由(解放)」で見るケースがあるが、これはいただけない。むしろ、興行や選手の格が観客に支配的イデオロギーを押し付ける場合があるのだ。WWEの白人優先、マイノリティの悪役化(ときに、それを裏返した善玉化)とか、日本のプロレスの選手権試合での国歌斉唱など。資本主義経済社会の一企業が行っているから、イデオロギーの強化に関与することはあっても、自由や解放を目的にすることはないよ。毎回、観客が暴動をおこしては興行していられないからね。
 また、WWEが上場するにあたって、プロレスの仕組みを全部公開し、プロレスではなく「スポーツ・エンターテインメント」と再定義した。結果、プロレスは「世界最強の格闘技(@アントニオ猪木)」ではないとされた。上の考察は、この業界最大の企業の方針をどのように処理するのか。

 

 

2021/01/15 現代思想2002年2月増刊「プロレス」(青土社)-2 2002年
2021/01/14 現代思想2002年2月増刊「プロレス」(青土社)-3 2002年に続く