odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

桑原武夫「文学入門」(岩波新書) 抑圧から解放された時代に、海外直輸入の理論で文学の在り方を考える。「人生いかに生くべきか」にこたえる大衆小説に、答えを出せない文学はどう応じるか。

 個人的なことから。高校3年の大晦日が初読。もうすぐ共通一次試験なのだが、一日くらいいいだろうと夜の受験勉強をやめて読んだのだった。暖房のない寒い部屋にひとり。
 さて本書は1950年の出版。文化生活のために文学を読みましょうという呼びかけとその方法について。背景にあるのは、5年前の敗戦以前は政府と軍による文化統制と物資不足があって、本を自由に選んで自由な時間に読めなかった。敗戦後は一転して本の出版が(ほぼ)自由になったが、俗悪本・雑誌も大量にでていた。本の氾濫という事態で、かつ長い間の文学の抑圧から解放された時代に、文学の在り方を考える。

なぜ文学は人生に必要か ・・・ 要約を要約すると、「人生を充実したよりよきもの」にするために、理性と知識では不十分で人生に感動する心が必要。それにもっともよいのは文学。で、文学から読み取るのはインタレスト(興味、関心、利害感などの働きかけと行動)で、創作を鑑賞することによる経験(エクスペリエンスのより能動的、主体的なもの)で、人間についての知識を獲得する。
(なぜ劇や音楽や絵画彫刻などではダメなのかという問いは置いておく。やはり「充実したよりよき」人生とは何かにふれないのは不満。「充実」「よりよき」をあいまいな日常言語のままにしておくのは不十分。ここに金儲けや権力・権威の獲得、新知識や技術の発明発見などの功利主義を主張する人がいたときに、「充実したよりよき」人生を、文学の必要性を説明できないでしょう。あるいは家庭の世話や子供の養育などの優先を主張する人がいたとき。人生を仕事・労働・活動にした時に、文学はどれにも当てはまるがどれからも逸脱しているので、それぞれの場面を優先にする論理に対して文学の必要性を説明できない。インタレストやエクスペリエンスの外来思想の言葉では太刀打ちできない。そういう意味では文学の必要性に普遍的な回答をすることはできないのではないかな。)
<参考エントリー>
斉藤孝「読書力」(岩波新書)
外山滋比古「思考の整理学」(ちくま文庫)
山形浩生「新教養主義宣言」(河出文庫) 

すぐれた文学とかどういうものか ・・・ 読み終えた後に自分が変革されたものとして感じる作品。トルストイ「芸術とは何か」にならえば、新しさ・誠実さ・明快さともっているもの。なお、文学の道徳性は規準にいれない(インタレストや経験などの議論があるがすっとばしてよい。1950年当時、文学は反道徳な内容をもち、読む・書くことは道徳規範を壊す行為と考えられていた。くわえて私小説無頼派の作家の言動は世間のひんしゅくを浴びていた)。
(ここでも「変革」の内実が問われないし、小説の道徳を社会に批判があるかとか新たな経験を提示しているかくらいに小さく扱っている。個人的には、小説を読むことは人間的善や共通善(@サンデル)と照らし合わせることであり、どのような行動が共通善になるかを検討していくことであると思う。悪漢小説の胸糞悪くなるような犯罪者の行動を読んでも、読者は共通善や道徳と照合して自分の行動を変えるし、マイノリティの異文化や差別を知ることで自己統治や多様性、相互支援などを学び、自分の中の道徳規範をアップデートしていく。読書はそういうものだと思うけどなあ。)

大衆文学について ・・・ 大衆文学は隆盛だが新しい経験を形成していないので文学としては不十分。フランスの大衆小説は19世紀に誕生。リアリズムの手法で民主主義を描いた。日本の大衆小説は1920年ころから。中里介山大菩薩峠」を嚆矢(著者は講談速記と大衆文学を分ける)。封建主義的ロマンティシズムで現状保持。文学(私小説)にはない「人生いかに生くべきか」に応えていた。それが大衆の気分にあった。(その他の情報。文体が音読に適する、すなわち1920から30年代は読書は黙読するものではなく音読するものだった。当時雑誌や円本が盛んに出版されたのはカナダの会社が紙をダンピングして売ったのを輸入したため。ここらへんは文学史に出ない情報なので貴重。)
(桑原の大衆小説批判はその内容に加えて、戦時下の軍が行った大衆小説による国策協力要請と、それに乗っかった大衆小説への批判も含まれているのかとも想像した。)

 文学は何を、どう読めばいいのか ・・・ 近代小説は個性による世界発見を行い、人間中心である。事件そのものを描く物語とは区別される。中世以前の文学(文芸)は基礎教養と訓練と作者周辺の事情を知ることが必要であったが、近代文学は不要。予備知識や訓練がなくても読めるし、それを奨励。でも基準(スタンダード)を常備し時をおいて繰り返し読むことは重要。
(とはいえ、この国では文学を作者の意図と作品の完成度で評価する。それは21世紀の大学受験や素人のジャンル別(作家別)ランキングなどに残っている。こういう方法はだめだと思う。作品と作者は別というのに作者の意図を「忖度」するのはおかしいし(多くの作家は「作品の意図」なるものを否定する)、完成度を評価軸にするのは作品の可能性を狭くする。好きなように読め、では訓練されていない読者は途方に暮れる(小中学生の読書感想文の宿題が不評なのはそのせい。「自由」を行使するには技術が必要なのだ)。なので、「どう」読むかのテクニックを整備し教育するのは必要。ただし教科書の指導要綱のようなのとは別もので。)

アンナ・カレーニナ」読書会 ・・・ サマリー割愛。(しかし本書の出版が1950年の占領期であることにも気を付けておこう。民主主義が啓蒙されているとき、読書会の男女の平等な参加は新しく思われたに違いない。)

世界近代小説五十選(数字は発表年)を備忘のために記録。
ボッカチオ「デカメロン」1350-53/ セルバンテスドン・キホーテ」1605

デフォオ「ロビンソン漂流記」1719/ スウィフト「ガリヴァー旅行記」1726/ フィールディング「トム・ジョォウンズ」1749/ オースティン「高慢と偏見」1813/ スコット「アイヴァンホー」1820/ ブロンテ「嵐が丘」1847/ ディケンズ「デイヴィド・コパフィールド」1849/ スティーヴンソン「宝島」1883/ ハーディ「テス」1891/ モーム「人間の絆」1916

ラファイエット夫人クレーブの奥方」1678/ プレヴオ「マノン・レスコー」1731/ ルソー「告白」1770/ スタンダール赤と黒」1830/ バルザック「従妹ベット」1848/ フロベールボヴァリー夫人」1857/ ユゴー「レ・ミゼラブル」1862/ モーパッサン女の一生」1883/ ゾラ「ジェルミナール」1885/ ロマン・ロランジャン・クリストフ」1904-12/ デュ・ガール「チボー家の人々」1912-39/ ジイド「贋金つくり」1926/ マルロオ「人間の条件」1933

ゲーテ「若きウェルテルの悩み」1774/ ノヴァーリス青い花」1802/ ホフマン「黄金宝壺」1813/ ケラー「緑のハインリヒ」1854-55(改作1879-80)/ ニーチェツァラトゥストラ」1883-84/ リルケ「マルテの手記」1910/ トーマス・マン「魔の山」1924/ ヤコブセン「死と愛」1880/ ビョルンソン「アルネ」1858-59

プーシキン「大尉の娘」1836/ レールモントフ「現代の英雄」1839-40/ ゴーゴリ「死せる魂」1842-55/ ツルゲーネフ「父と子」1862/ ドストエフスキー罪と罰」1866/ トルストイアンナ・カレーニナ」1875-77/ ゴーリキー「母」1907/ ショーロホフ「静かなドン」1906-40

ポオ「短編小説」1838-45/ ホーソン「緋文字」1850/ メルヴィル「白鯨」1851/ トウェーン「ハックベリフィンの冒険」1883/ ミッチェル「風と共に去りぬ」1925-29/ ヘミングウェイ武器よさらば」1929/ スタインベック怒りの葡萄」1939

魯迅「吶喊」1921

(表記は本書とおり。現在の表記と異なるものが散見されます。俺が読んだのは22冊。少ない...)
 このリストは岩波文庫のラインアップに大きな影響があったと思う。1980年ころまではほとんどが岩波文庫で読めたから。それ以降は古いものから抜けていった。 
 この50選は主に18-19世紀西ヨーロッパの近代市民を描いたもの。社会の状況が共通している(共和政か立憲君主制で民主主義が建前。基本インフラは整備。自由市場で貨幣経済。市民層、労働者層が都市にいる、など)。なるほど最初のいくつかを除けば、1950年当時の日本の読者は予備知識や訓練がなくても小説世界に入ることができそうだ。社会や政治経済、市民社会などの素地がだいたい共有されているから作品に描かれる自我や自立の問題、社会問題、思想問題などを読み取れた。
 21世紀に世界文学の50選や100選を構想するとき、どうなるかと妄想してみる。20世紀半ば以降の中南米文学を除くことは不可能だと思うが、それらを「文学入門」の方法で読めるか(とくにリアリズムの手法で「個性による世界発見を行い、人間中心」でというところ)。それらを基礎教養と訓練なしで読むことはできるか。あるいは、世界文学に入れることのできる日本語の小説はあるのか。あるとしたらどれか。日本語で書かれた小説は他の言語の読者に予備知識や訓練がなくてもインタレストを感じることができるか。
 読み達者による世界文学選の試み。
池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 全30巻

www.kawade.co.jp

 

 著者はフランス文学研究者(1904年生まれなので当時46歳)。そのせいか、文学のモデルを19世紀フランスにとる。中産階級が生まれて、新聞・雑誌という新しいメディアができ、君主制と共和制の政治勢力が対抗していた。文学の書き手は小説や評論で民主主義や自由主義を宣伝していた。市民や大衆の啓蒙や先導という意識をもって作家が書いていた。それは同時に、君主制・身分制からの解放、市民的自由の発露でもあったので、新しい人間や現在の人間の典型を全体的に描いていた。作家や作品の社会的な役割が明確で立ち位置もはっきりしていた。
 では日本では、というと、近代小説は同じようなインテリ、小官吏層などから生まれたが、高等遊民や書生の間で読まれるもの。漢学など素養をもつものからは不品行・不道徳の極みとされる。西洋の近代小説を継ごうという意思は1920年ころからできた文壇や私小説の狭いところに閉じこもって内輪向けの話(物語でも小説でもない)を書いている。一方で、保守反動の大衆小説が流行していた。敗戦で新規まき直しができるので、文学を本来的(西洋の近代小説の規範に沿った)小説にしようというのが本書の立場。
 著者の困難は、適切な文学理論が国内にないので、海外直輸入の理論を使わなければならないところ(漱石の「文学論」に似た問題意識にあると思う)。たぶんアラン経由の「インタレスト」を中心に、経験(エクスペリエンス)ほかの横文字言葉で説明する。日本の日常言語になっていないので、あいまいな概念は説得的ではない。また著者の「文学入門」は「人生を充実したよりよきもの」の先を提示していないので、大衆小説の平明さ(体制順応とか通俗道徳とか)に代わる答えを出していない。大衆小説は「人生いかに生くべきか」にこたえているといのに、近代小説は読者をつかむことができるのか。そこはあいまいで、読者の高い意識を頼りにするしかない。リベラルの価値相対主義や価値観の中立などの主意主義がこのあいまいさの原因になったのだろう。読書の技術がないこともあわせて、21世紀に読むにはきつい。なお、座談会に出席した「素人」の志の高さには敬意をもちます。
(本書「文学入門」は、基礎教養や訓練を経ていない高校生で読んだ時より、それなりに経験を積んだ老年になってからの読書のほうがより多くを読み込めたと思う。やはり基礎教養や訓練は読書に必要で、技術を学んだほうがよい。)
<参考エントリー>
大江健三郎「文学再入門」(日本放送出版協会)

 同じ年に中村光夫「風俗小説論」が書かれていて、内容は驚くほど似ている。ことに私小説と風俗小説について。
 彼らのような海外文学に規範をとるようなインテリからすると、1950年当時において日本小説は間違った道を歩いている。その在り方は(西洋近代小説と比較して)誤っている。是正されなければならない、と考える。なるほど私小説に、プロレタリア文学新感覚派に、戦後の無頼派とあっては、過去30年の文学の歴史は不毛なものであるとみなさざるをえまい(俺も、探偵小説を除くと、この時代の小説はほとんど読んでいない。読むと腹立つことが多いので。たとえば横光利一「上海」(岩波文庫))。
 歴史的遠近法を使うと、その1950年当時はまさに戦後文学の勃興から隆盛期であって、名作・佳作がたくさん生まれていた。あるいは進行中で書かれていた。それに目が届かなかったのか、進行中のできごとのためにあえて評価を外したのか。彼らの「戦後文学」批評を聞いてみたいものだ(そこまで勉強する気はあまりないけど。なにしろ入手難だし)。私見では、日本の文学は「戦後文学」で世界文学になった。

桑原武夫「文学入門」(岩波新書)→ https://amzn.to/49Pr2Sx

 

著者は、デューイ、アイヴァー・リチャーズ、アランに学んだという。俺にはスタンダールとルソーの翻訳者として近しい。中江兆民「三酔人経綸問答」(岩波文庫)の現代語訳もやっていた。他には、桑原武夫「世界の歴史24 戦後の世界」(河出文庫)

 

<追記2022/4/26>

新書がでる前、桑原武夫の講義に出席していた高橋和己の記録。「認識と実践の人 桑原武夫」@孤立無援の思想、旺文社文庫P245-247