通常、1945年の敗戦で日本は占領された(間接統治だけと思われるが、沖縄諸島他はアメリカのと直接統治、北方四島他はソ連の直接統治)が、「占領政策ですべてが変わった」「日本の政党やリーダーは古くて何も変えようとしなかった」などと説明される。その通りであったかと疑問を投げかけ、そうではない敗戦前から変えようとする勢力はあったし、どう変えるかは占領政策と合致しているところがあったし、占領終了後も継続された、とみる。
226事件で政権は国防国家派が主流になる(社会国民主義派(下からの社会の平等化、所有と経営の分離、労働条件の改善など)が共闘)。協同主義、上からの軍需工業化、国民負担の平等化などの総力戦体制がとられる。東条英機、岸信介など。大きな政府、福祉国家を作った(健康保険制度、公的年金制度などはこの時作られる)。この体制が躓いたのは敗色濃厚の1943年ころから。反東条派・非東条派が連合して打倒し、小磯内閣になる。ここで和平工作が進められる(陸軍の反対などで頓挫。具体的になるのは1945年の鈴木内閣以降)。この政権の特徴は自由経済派(産業合理化、財政整理、自由主義経済など)。近衛文麿の周辺や吉田茂など。ここで検討されていた施策が戦後の政策に継承される。このグループは、敗戦を受け入れる政治勢力であったので、占領軍と協働体制がとれた(そのような政治勢力がない占領地では混乱が発生)。
1945年のポツダム宣言受諾直後から、日本の変革を目指す運動が開始される。自由主義の保守勢力や共産主義運動など(書かれていないが在日朝鮮人も動いていたはず)。同年10月に占領軍が到着して、GHQが設立されると、その指導に基づく制限が加えられる。そして五大改革指令をだす。婦人解放、労働組合結成奨励、学校教育民主化、秘密警察などの廃止、経済機構の民主化。これらも類似した政策を自由経済派は準備していたり、同等の計画をもっていた。憲法改正についても同じ。仮に占領がなかったとしても、これらの改革は日本の政府によって行われた可能性があるという。
占領政策は1947年ころに変わった。民主化改革、軍国主義復活防止から経済自立とアメリカの安全保障国家の一員へ。背景には占領支援に対するアメリカ国民の支持が無くなってきたこと、冷戦で安全保障政策に変わったこと。なので、それまでは日本の中道政権を支援してきたが、このころから保守政党(とくに吉田茂)が占領政策の変更を受け入れた。
中道政権は修正資本主義で一部事業の国有化をはかり、組合活動による相互扶助をすすめて国家による福祉政策を重視しなかった。一方、保守政権は自由主義経済を推進し、国家による福祉政策を進める。また、初期の占領政策から生まれた日本国憲法の戦争放棄・軍隊破棄は中道政権が擁護し、保守政権は武力行使容認・軍隊保持の改憲を目指すようになる。占領期の国民の選択は経済では保守政権の自由主義を、安全保障で中道政権の護憲を選んだ。それが55年体制となって長く保持される。
(この表がわかりやすい)
これまでの占領史や戦後史では保守政権vs共産主義とそれらを超越するGHQという視点のものが多かったが、ここでは戦前・戦中からの国防国家派・社会国民主義派・自由主義派の保守と、戦後台頭した社会民主主義の構図でみる。さらに敗戦から占領を切断とみるのではなく、継続と変革と受容としてみる。このほうが戦後の保守政党や政治の流れをつかむのによい見方だとおもう。(その結果、労働運動や共産主義運動の意義が相対的に低くなるので、別に補完したほうがよい。)
また、大衆・民衆の暮らしでいうと、1950年代を懐かしいとする考えがある。これは総力戦体制のあと、占領政策による労働者や農漁村の協同社会を作る民主化運動で培われたものであるといえる。しかし、自由主義経済政策で農村民主化運動の指導者が自民党に変わったり、自由経済で人の移動がさかんになったことや教育内容に国家が介入するようになったことなどで60年代に解体した。
(21世紀10年代の自民党は家族主義や地域共同体の相互扶助を言うようになったが、モデルは50年代の社会。そのような社会は失われているのに、戻そうとするアナクロニズム。)
いろいろなものの見方をコペルニクス的に転回する本。ある程度の情報を得たうえで読むと、とても面白い。
2015/04/10 竹前栄治「占領戦後史」(岩波現代文庫)
2011/11/24 松本清張「日本の黒い霧」(文春文庫)