odd_hatchの読書ノート

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與那覇潤「中国化する日本」(文芸春秋社)-2

2021/04/13 與那覇潤「中国化する日本」(文芸春秋社)-1 2010年の続き

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 「江戸時代化」という概念でみえてくるのはたくさんあるので、概要を紹介。基本的には「中国化」の真逆なありかた。したがって、
1.権威と権力の分離: 天皇の権威と権力保有者が別。これは大小の組織でも同じ(日露戦争の陸軍をみればいいか。象徴の大山元帥と指揮の参謀本部の2つの体系)、
2.政治と道徳の弁別: 中国だと政権保有者は徳の体現者であるという理念があったが、この国の為政者はイデオロギー抜き。
3.地位の一貫性の低下: 能力と資産の両方を持てないようにするとか、知識人は在野で清貧であるとか。
4.農村モデルの秩序の静態化: 世襲の世帯が地域社会の結束を支えるというモデル。そこから逸脱するのはいじめられるし、社会の流動化は批判され、コミュニティを大事にというスローガンに批判できないとか。
5.人間関係のコミュニティ化: 同じイエやムラに所属していることが他地域に残した家族や親戚への帰属意識より優先。「遠くの親戚より近くの他人」。こういう社会になる。
 この分析は、カレル・ヴァン・ウォルフレン「日本/権力構造の謎 上下」(ハヤカワ文庫)の<システム>と共通していそう。ウォルフレンのは明治維新後の社会の分析から抽出したのだが、こちらの「江戸時代化」は過去1,000年の歴史から抽出している。
 そうすると、武士の発生であるとか、後醍醐天皇建武新政元寇などがこれまでと逆の評価で描かれることになる。かつ、最近のできごとの関連も見えてくる(元寇日中戦争の共通性など)。ここも面白くて痛快なのだが、全部数え上げるときりがないのでやらない。
 ただ江戸時代に完成した「江戸時代化」は見ておかないと。封建性の対義語は郡県制。郡県制だと中央の皇帝が官僚に任命して短期間統治させるものだったが(明治維新から敗戦までの県知事はそうしたもの)、封建制は統治者は現地に居住する。長期的に封建領主と農民は共同で生産しないといけないから、もめ事は回避されがち。なのでは百姓一揆があっても、かつての「春闘」のように互いに決定的な亀裂が生じないように解決されていた。それは、農民の側からすると、土地を所有して代々の家族が生活できるようになるためにはそのほうがよい。このやり方は水田が拡大している間は、領主と農民には都合がよかったのだが、新たな水田がつくられず生産性が一定になった時にはうまく働かない。すべての人口を養えないから、次男以下を家から追い出すことで家作が守られる(都市に出てきた田舎の次男以下は、貧困におかれ結婚できずに独身で野垂れ死にという悲惨な生活になるものが多かった)。これは戦後の高度経済成長の企業でも同様。男性社員は完全雇用にしたが、それは女性を差別することを前提にしたうえでの話。領主のような統治者の側でも、独裁ができない仕組みになっている。家老たちには「主君押込」という権利があって、独裁や強いリーダーシップをもつものをトップから引きずりおろすことができた。これになれると、幕末のような危機やグローバル化の圧力があるときに、「経営陣」が対応できなくなる。長年の「平和」が幕臣を無能にしたというより、調整能力はあっても危機管理のできないものしか統治に参加できない「江戸時代化」されたシステムに問題があるとおもったほうがよい。現在でも、優秀な経営者が独裁的に企業を大きくできても、ある規模を超えると「江戸時代化」された取締役会が実権を持つようになって、動きが悪くなるのと同じだ。
 中国化でも江戸時代化でも西洋の人権・法治・議会制民主主義は根付きにくい。それは西洋のこれらの「基本的人権」は貴族の持っていた特権を庶民や大衆に拡大していくものであった。封建制以前の貴族政が西洋では長らく残っていたから、そのような動きになったわけだ。ところが、中国や朝鮮では貴族制は1000年以上前に廃止されていたので、「基本的人権」は理解しがたい。江戸時代化されたこの国では世襲の特権はあったが、西洋のように個人に与えられるのではなく、イエやムラのような集団に与えられていたので、同じく理解しがたい。そこらが、これらの国々で基本的人権と民主主義がなかなかうまく運用できない原因になっているとのこと。多少はそれらを運用している歴史の長いこの国ではあるが、「稟議」「根回し」とかの江戸時代化のスタイルのほうを好むからなあ。
 中央集権と経済の自由に代表される「中国化」はこのあとの国の流れでは必然になるだろう。それに抗する「江戸時代化」は北朝鮮のような抑圧の仕組みになるだろう。いずれも手をこまねいていては、陰鬱な未来しか待っていない(「革命」の可能性のない「1984年」みたいな社会になりそうだ)。とすると、未来は「日本国憲法」の理念にあるというのが著者の見方。ここは大いに賛同する。