odd_hatchの読書ノート

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野間宏「暗い絵・崩壊感覚」(新潮文庫) 普遍的な青春のテーマの小説だが、戦争体験と新しい文体が小説の革命になった。

 今回読んだのは新潮日本文学の39巻「野間宏集」。新潮文庫で読んだことはあるが、手放したので同じ作品が収録されているかは不明。

暗い絵 1946 ・・・  近衛が「東亜新秩序の建設」声明を出したというから1938年ころか。その5年前の滝川事件で京都大学の左翼はほぼ壊滅し学生運動も沈黙していたが、深見進介らはほそぼそと運動を行っている。彼らの憂鬱と屈折はいろいろな理由がある。もちろん左翼や学生運動をすることが警察や特高の知れるところとなれば即座に逮捕され拷問をうけるであろう。その覚悟があるものの、彼らの学費を出す親たちは不況のために自分らの費用を削って子供に振込み、家業に戻るか企業つとめで返済されるのをまっている。そこで逮捕されたのを知れたら…という複雑な思い。そのうえで、進学率数パーセントの時代に大学生であることは他人の注目を浴びることであり、革命家であろうとするならモラルに秀でなければならず、それは青春時代の性欲を押し殺すことでもある。恋人からはわかれ話を持ち出され、近日中に決着をつけねばなるまい。そして、俺はいったい何者かという存在の不安と自我の未確立も克服すべき課題である。冬のころの深夜、深見は飯屋でノンポリの学生に冷やかされ、運動の仲間の中身のない会話を聞く。他の人は政治革命に集中しているが、深見にはその前の存在革命が問題なのであり、それは誰とも共有できない。仲間のなかにあっても孤独を感じずにはいられないこの精神のあり様のなんという矛盾に満ちたことか。それを1946年に回想するとき、運動の仲間はことごとく獄死し、3年の兵隊生活の後転向した深見だけが生き延びている。あのくらい学生生活と社会。その暗さはブリューゲルのいくつかの絵に重なる。冒頭の長い執拗で精緻な描写は、戦前左翼の文体(西洋文献の翻訳調)なのであるが、その文体を一度潜り抜けないと、あの時代を描けないのであろう。政治運動から小説家に代わるためには、文体革命が必要だったのである。主題や文体、人物像など「戦後文学」を開花させた記念碑的作品。まあ、現代の小説作法から見ると、いろいろつたないところはあるが、モデルになる文体も作品もないとき、このようないびつ(バロック)な作品になるのだろう。

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崩壊感覚 1948 ・・・ 30代の勤め人及川隆一はあいびきにでるところを下宿のおばさんに止められる。同じ下宿にいる大学生が首つり自殺した、警察に届けてくるので現場にいてくれ。そのためにあいびきはできず、肉欲の疼きに苦しみ、豆飯に腹を下してしまう。その間、彼は自分の精神というか自我が崩壊している感じがしている。筋らしい筋はなく、及川のとりとめない連想が延々と書かれる。精神が肉体を理解できず嫌悪すると同時に、そのような肉体嫌悪を催す精神にも愛想が尽きたという事態。及川のオブセッションは、軍隊時代のできごと。ひとつは古参兵の陰湿ないじめ。それと手榴弾で自殺しようとして失敗したこと。左手の指二本を失ったのがそのなごり。肉体ということで自殺死体、あいびき相手の身体、そして自分のからだがでてきて、いずれも観念においては差異がないとみなされる。そういう結論になるのは、及川が一人であって、他人と交通できないからなのだろう。

顔の中の赤い月 1947 ・・・ 戦争後復興は進まず、戦争帰還者は苦しい生活をしている。インフレの進行が彼らを苦しめる。元軍人の北川はあまり好きではない恋人と付き合っているが、死んだ以前の恋人を忘れられず、それを悟られてか恋愛は進行しない。北川が恋愛に踏み込めないのは、戦争体験。戦友が疲労死するのを見送るだけだったとか、古参兵や上官のリンチの記憶がフラッシュバックするとか、現地の豚を殺したとか。インテリゲンチャには克服しがたい悩みがある。それぞれの心のトラウマは北川には頬に浮かんでいるような気がする。それが表題の指すところ。

手首・足首 1960 ・・・ 学会で卒中か何かで倒れた身体から見た医者や義足会社社員などの様子。脳死(という言葉は当時はない)状態の身体の前では、彼らは口さがなく、期せずして神のような<普遍的な見るもの>になってしまった。まあ、そこではしゃべる肉体はほとんど存在感がなく、義足や義手のほうがリアルに感じられる。

 

 主人公が悩んでいることは大したことではない、というか、普遍的な青春のテーマ。禁欲の大変さ(恋人がほしいよお)、恋人との身体的接触の欲望(会いたいよおとか、俺の恋人のおっぱいは小さいとか)、大学の勉強にどんな意味があるのか、代わりに学生運動をしているが勝利する展望はあるのか、仕送りをする両親に負担をかけて気まずい(が、頭を下げるわけにはいかない)、なによりも自分はいったいどんな自分であるのか、自分はいったい何になるのか、などなど。自我の肥大と肉体の統御しがたさみたいなことかな。そう読み取ると、この小説の主人公たちの屈折や憂鬱は、終戦当時にだけあるようなめずらしいものではない。今でも青春のさなかにいる人たちの問題でもあるわけだ(なお、おれが若い時を過ごした高度経済成長からバブルの時代には就職が容易であったという事情があって、その前後の世代の人たちとは問題のとらえ方が違うかもしれない)。
 ただ、彼らに特権的な経験があるのは、戦争体験。軍隊に捕られれば(と当時の人たちは認識していたのだ)、古参兵や上官に日常的にリンチされ、異郷の風土は病気や疲労を生むし、物資の不足は飢餓になる。戦闘の前線に移動すれば、戦友との関係も気まずくなり、飢餓や疲労の極地で倒れた兵士は友人であっても見殺しにせざるを得ない。銃弾の飛び交う中では、生死の境はほんの数㎝の偶然。生き残った者は、フラッシュバックで不眠の夜を過ごし、帰還した「祖国」はまともな保障を行わず、生きるためには犯罪に手を染めることもやむを得ない(闇市場での売買は法律違反だからね)。兵隊にならずとも、国土は空襲で破壊(そのまえに国の命令で強制疎開があり、家屋が壊されたのだった)。職と食料がない。というような戦争体験をその後に生まれたものが網羅できるはずもないが、それこそ筆舌に尽くしがたい経験であった。
 で、その戦争体験は戦後数年では整理できるはずもないし、忘却の川に流すこともできない。そこでも存在に関するさまざまな問いが生まれるが、まず問いそのものを言い尽くせない。それは、大学や企業にいたときにもっていた平時の存在の問題と関係があるはずだが、うまくつながりを持たせることができない。なにより敗戦後の平時と戦時が切断されて、そのつながらないのだ。
 にもかかわらず、その経験と思考は文章にならねばならない。それを書くことでつながりを持たせることができるかもしれない。というわけで書く。それを書く言葉は、戦前の言葉ではだめだし、戦時の言葉でもだめ。それらは「現在」の彼らの存在を書くにふさわしいものではないし、それらの言葉ではとらえられない。なので、作家は晦渋な翻訳調の文体をさらに破格にして書く。それが収録された「暗い絵」「崩壊感覚」「顔の中の赤い月」。なるほど文章がながいだけでなく、文法をほぼ無視し、読者の読みやすさを顧慮せず、多彩な漢語を使って、くどいうえに尋常でない熱がこもる。主題は整理されていないし、現在を書くところに過去の体験がすぐに介入して、いま=ここがどこなのかさっぱりわからない。自分の内面を語る文章がそのまま他人の外見を書く文章に移動し、それが世俗の描写にもある。そのように整理されていないまま、多数の問題を一気にほとばしらせ、およそ他人の理解を期待していない。そのように書くしかない文章と小説。
 時を置いてしまうと、書いてあることの中身はそれほど深いとは思われないし、思索も常識的だ(まあ、30歳だからね)。違和感のあるのは、学生であり知識人であることが共産主義への傾倒と実践活動を目指すことになるという点。このような日本人の知識人に関する規定は1930-70年代頃によく見られたが、それは21世紀には失われている。なので、生活と思考の間に挟まれて苦悩するという図式がなかなかわかりにくくなってしまった。もうひとつは、実践に参加しない学生たちや生活の場にいる人たち(主婦とか会社員とか)をほぼ無視しているあたり。このような知識人の民衆に対する蔑視と崇拝のごっちゃになっているところ。「知識人」という視点で小田実野間宏を論じているので(「日本の知識人」「「政治」の原理、「運動」の論理」など)、参考にされたい(といっても、野間の小説同様、入手しにくいか、苦笑)。
 ただ、そのような文体でしか書けない時期があり、それがその時代(混沌と熱気において)を闊達に描写しているのだ、と思い当たる。さまざまにいびつで歪んで光沢の悪い小説ではあって、形式や構成からするとまず及第点には届かないが(志賀直哉芥川龍之介のような「珠玉な一品」ではない)、それ以外のところに魅力のある短編。なるほど、これが戦後文学の原点だし、1920-30年代生まれの人々に共通する「戦争体験」であるわけか。俺は、著者らの「戦後文学」(さまざまな定義があるけど、とりあえず昭和20年から35年までにデビューした人たちの小説群とするか)が最も小説らしい小説だと思う。戦後文学の小説ほど豊かな(共感と反発が同居する)読書体験をもたらす小説をこの国の文学史に見出していない。

 

    

 

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