探偵小説翻訳家の淡路瑛一(29歳)は、7年の片思いの塚本有紀子が殺されるのではないかと心配している。風邪をひいている有紀子を見舞いにいったときに、風邪薬を一包持ち出して、嫌な男に飲ませたら、毒が入っていて死んでしまったからだ。警察の担当刑事は淡路に事件の推移を説明し、知り合いの雑誌編集者はしろうと探偵になって記事を書けとけしかける。なるほど、私は犯人であり、探偵であり、被害者であり、証人であるわけか。というわけで、嫌いな作家・都筑道夫の「猫の舌に釘を打て」の束見本(装丁などを確認するための白紙の本)に手書きで手記を書くことにした。これなら目につかない。1961年ではすでにブレイクの作品は紹介されていて、淡路は高く評価している。
淡路が有紀子と知り合ったのは「侏羅紀(じゅらき)」という同人誌を作っていたから。淡路のほかに書家、写真家、日本画家、コピーライターなどの自由業の独身者が続けている。彼らの一部は池袋の「サンドリエ」という喫茶店・バーにたむろっている。昭和30年代、給与は安く、狭い貸間に住むのが普通、電話もないし、自転車も高級品(自動車などとてもとても。買えるようになるのは昭和40年代に350㏄のスバルがでてから)。なので、若者は外に出て、歩いて、バスや電車に乗って、知り合いの家を訪問しあい、いきつけの喫茶店やバーにたむろっていたのだ。この学生生活の延長のような暮らしでは、仲間とそれ以外の区別がはっきりしていて、行きつけの店に初見さんがいると仲間になれるかそうでないかを一瞬で判断する。風邪薬を持った嫌な男はそういうひとり。
一方、有紀子は製薬会社の塚本社長の妻におさまる。最近「ハッタリ」という湿布薬で成功した。なので、家には西洋絵画の複製が飾られ、洋酒をふるまい、モデルも呼んだおおがかりなパーティも自宅で開ける。有紀子の誕生日に行われたのはそういうパーティで、西洋のゲームなどをやりながら、みなでもりあがろうというもの。有紀子が裸になるというゲーム(中身は別人)に全員があつまり、散会した後に、有紀子がナイフで首筋を刺されて殺されているのが発見された。
というようなストーリーが、淡路によって書かれる。手記に書かれるように淡路は依頼された探偵。座っていても情報は集まらないので、同人の仲間やバーの常連客、なによりも塚本家に話を聞きに行く。ここはほとんどハードボイルド。通常の探偵小説やハードボイルドと異なるのは、淡路が有紀子にずっと惚れていて、結婚した後もヨリをもどしたがっていること。ヨリと思っているのは淡路だけで、有紀子は知り合ってからずっと淡路のことを歯牙にかけたことはない。そのすれ違いというか、淡路の未練というか、いじいじとした意気地なさは俺も似たような経験があるので、身に染みる。ということは頭のよい淡路に自然に感情移入することになって(そうなるように淡路はあえて詠嘆調の、嘆きと諦めの入り混じった悲しい文章にする)、事件を客観的にみることを困難にする。
もともとの構想は、ひとりが犯人であり、探偵であり、被害者である(さらに証人であることも加えられる)。この組み合わせで一人二役はよくある趣向だが、よっつを同時に兼ねるのは難しい。よく知られているのはフランスもの。センセー作とほぼ同時期で、さきに翻訳された。センセーは記憶喪失を使うのはよろしくないという(事件の全体を把握できる立場でないからね)。本作ではその趣向を使わずにトライ。上記のように、情けない男の恋愛を読んでいるうちに(加えて昭和30年代の独身男の生活と風俗を読んでいるうちに)忘れてしまう。読み終えると成立していることに驚愕する。
センセーのいうとおり、昭和30年代の長編はみかけは冒険、アクション、ユーモアなど読みやすさ、面白さに徹しているように見せかけて、背後でトリッキーな仕掛けを満載している。とりわけ本作は、冒頭に真相が書いてありながら、言葉の迷宮をさまよっているうちにそのことを忘れてしまう。束見本という本の形式をつかったことにしたタイポグラフィーも見事(光文社文庫版では、通常の明朝体ではない活字で手書きらしさを表現)。21世紀の読者には風俗と感情が違いすぎて読むのはつらいかも。そういわずに、趣向と仕掛けに焦点をあてる読書をすることをおすすめ。
密室、嵐の中の山荘、雪の上の足跡というような探偵小説の趣向とは別の趣向を考えるのがセンセーのいうモダン・ディテクティブ・ストーリー。そのことを戦後の海外派の作家はいろいろ考えたのだが・・・というのが、センセーの嘆きであって、さて1980年代以降の作者と読者はこれにこたえているのかな、というのが気になり続けている。
2021/08/20 都筑道夫「猫の舌に釘をうて」(講談社文庫)-2 1961年に続く