odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

マイケル・サンデル「公共哲学」(ちくま学芸文庫)-3

2021/11/05 マイケル・サンデル「公共哲学」(ちくま学芸文庫)-1 2005年
2021/11/04 マイケル・サンデル「公共哲学」(ちくま学芸文庫)-2 2005年


 リベラリズムのさまざまなタイプについてと、リベラリズムとその批判の対決について。

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第3部 リベラリズム多元主義、コミュニティ
道徳性とリベラルの理想 1984 ・・・ 道徳的相対主義はリベラルを擁護しない。それに代わる道徳規範を出さなければならない。これまでには、功利主義(これは人間の多様性、多源性、個性を見ないなど問題あるのでダメ)とカント哲学(権利の政治といえる。正と善を別にみる。正は基本的な権利や自由の枠組みで、善は枠組みの内部でジト人が追及する概念)。新たにコミュニタリアン、共通善の政治が議論されている。人間には共通の目標や目的があり、市民として共同生活の参加者として自分の役割を考える。比較的小さな連合体の政治で、公共空間を支える中間的コミュニティ(個人と国家の間)を重視する。コミュニタリアンでは時に個人の権利を制限する可能性がある。公共生活で善にならないもの(たとえばポルノ販売など)を規制することもありうる。
(第2部までの論文より後退した主張に思ったら、書かれたのはずっと前だった。)

手続き的共和国と負荷なき自己 1984 ・・・ 功利主義リバタリアンロールズの批判、および「手続き的共和国」の説明はリンク先で(小林正弥は「手続き共和国」と表記)。
小林正弥「サンデルの政治哲学」(平凡社新書)-2
 現代の自由は権力の集中を許し要求さえする。民主主義の圧力を遮断するために、民主主義の機関(立法府や政党)から、個人の権利の分配と擁護により適した機関(司法と官僚)に権力を集中する。その結果、市民は政治に無力感を持つ原因になる。社会保障制度は、個人の権利を力強く約束するとともに、国民にかなり高いレベルの関わり合いを求める。権利はいやおうなしにおびただしい依存や期待に市民をまきこんできて、それは自分で選択したものではないのでアイデンティティに無関係なので、拒む傾向が強まる。それが権力の集中につながる。(なので、権利に対して義務を要求するネトウヨがでてくるわけか。彼らは政治の依存や期待に関与しない理由に義務をもってくるわけね。)

成員資格としての正義 1983 ・・・ 票を買うことの是非を市場原理で批判するのではなく、公共(コミュニティ)の成員資格として批判するウォルツァーの試み。サンデルは賛意。休日をvacation(空っぽにする)ではなく、hoiyday(祝いに参加する)にするようなコミュニティが道徳的基盤をつくる。
(日本でこの主張をすると、マイノリティの排除の理屈になるので注意。アメリカのコミュニティは出自や属性の様々な人の集まり。)

絶滅の危機 1986 ・・・ 核などによる世界の損失は(個々の)生命の損失以上である。人類として分かち合う共通世界の損失であるから。同様の理由でジェノサイドも否定される。個人主義では共通世界の損失を説明できない。

デューイのリベラリズムとわれわれのリベラリズム 1996 ・・・ ジョン・デューイ(1859-1952)のコミュニタリアンリベラリズム。デューイは、国家はコミュニティであると考えたが、20世紀を通じて国家は市民の共同生活を支えるコミュニティではなくなった。むしろ保守派がコミュニティを偏狭、不寛容な意味合いで使う用語になった。リベラルはコミュニティ概念を取り戻すとともに、自己統治や共通善からコミュニティの内実を提案しなければならない。

ユダヤ教の支配と傲慢――神を演じて何が悪いのか 2004 ・・・ 遺伝子工学で人間が人間をデザインできるようになった。人間が「神を演じる」ことが可能になったときに、傲慢であるかどうかを判断しなければならない。そのとき宗教人類学や宗教思想の知恵にかかわることになる。ユダヤ教の、安息日や眠り、偶像崇拝禁止の戒律は政治哲学でも有効な意義がある。

政治的リベラリズム 1994 ・・・ ロールズの「正義論」と「政治的リベラリズム」への評論。(専門的過ぎて自分には歯が立ちません。)

ロールズを偲んで 2002 ・・・ ロールズ追悼。「無知のベール」「格差原理」、技能が授ける報償や栄誉を美徳とみなしてはならない、などが重要。

コミュニタリアニズムの限界 1998 ・・・ リベラルとコミュニタリアンの議論で重要なのは、「正は善に優先するか」に対する答え。検討事例としてヘイトスピーチ規制がでてくる。正が優先するとするリベラルは、個人の権利と自由を大事にするのでヘイトスピーチ規制に反対。コミュニタリアンは自分らのコミュニティに被害を与えるのを認めるがその発言を取り締まるべきだということにはならない。というのは1998年当時の議論。サンデルは今でも同じ意見か。たぶん違うと思う。というのは、「権利の根拠をコミュニティの価値のみに求めるタイプのコミュニタリアニズムとは相いれない(P382)」といっているので。ほかのところでもある時代のあるコミュニティの価値観にコミュニタリアニズムは依存するものではないと言っている。この時代、アメリカではヘイトスピーチの害悪や社会の破壊などに対する事態と理解が不十分であったのだと思う。

 原理的なところは歯が立たなかった。 小林正弥「サンデルの政治哲学」(平凡社新書) のまとめの助けを借りよう。