odd_hatchの読書ノート

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テオドール・アドルノ/マックス・ホルクハイマー「啓蒙の弁証法」(岩波書店)-2

2021/12/09 テオドール・アドルノ/マックス・ホルクハイマー「啓蒙の弁証法」(岩波書店)-1 1947年の続き

 

 後半はアドルノが書いた章。

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文化産業――大衆欺瞞としての啓蒙 ・・・ 孤立化・アトム化した大衆は娯楽を欲しがり、資本は文化産業を作って大衆の求めるものを提供している。映画、ラジオ、雑誌など(1943年ころに書かれたのでテレビはないしインターネットも当然ない)。文化産業の商品は芸術ではない規格化商品で、代替可能な芸術のパロディで非真理。それを享受することで大衆は画一化・規格化され、主体をなくす・企業が人間を支配し、運命を采配する、云々。
(以下まとめる気がしない。文化産業の作る映画や音楽がいかに非芸術的かという指摘が続き(なにしろベートーヴェンのジャズアレンジでシンコペーションを入れるのがダメとか、ベニー・グッドマンの甘い旋律にブダペストSQが追随するのが嘆かわしいとか、そんなこと)、アメリカの広告とナチスファシストプロパガンダは同じに聞こえる、とか。アドルノが文化産業に対置するのは芸術。芸術が人間的価値や本来性を獲得するという主張は音楽評論の主題なので、ここでは繰り返さない。アドルノの文化産業論が弱いのは、文化産業の隆盛から全体主義の成立を説明できないこと。なるほどドイツで文化産業はナチに使われたが、それ以上に文化産業が隆盛なアメリカとイギリスが全体主義国家にならなかったのはなぜか? 文化産業がそれほど成立していない日本とソ連はどうして全体主義国家になったのか(これらの国は全体主義国家になってから文化産業が作られたのではないか)? 文化産業の低俗な商品を享受するとみなファシストになるの? 芸術を身に着けると全体主義に取り込まれなくなる? 長時間労働と低賃金で活動@アーレントができないようにする産業や政府を問題にするべきではないか? あとアドルノの反技術・反資本主義は芸術の文化産業化に抗するのに有効か? そういう疑問がわいてくる。アドルノが20世紀の文化文明を嫌っているのはよくわかるが、どうも資本主義や全体主義への批判としては突き刺さらない。)

反ユダヤ主義の諸要素――啓蒙の限界 ・・・ 書かれたときには絶滅収容所はうわさ程度の情報しかなかったはず。でも、ナチス占領地でのユダヤ人虐待などは知られていた。何よりアドルノはドイツから亡命してきた人。そのアドルノがヨーロッパに蔓延する反ユダヤ主義を解説する。しかし21世紀からみると、内容には不満足。アドルノがいうには、反ユダヤ主義は不満のはけ口であり、ファシストが政治利用したという。不満の理由は農本主義のヨーロッパに資本主義を持ち込み富を得たことに対する嫉妬と、キリスト教徒によるユダヤ教への宗教的敵意にあるという。反ユダヤ主義パラノイア、妄想などの心理的倒錯に由来し、権力のレッテル貼りに単修が同調し、欺瞞をそのまま受け入れたとする。そのプロパガンダに貢献したのが文化産業。アドルノからすると、反ユダヤ主義ファシズムの手段であり、心理的な倒錯なので治療可能とでも見ていたのか。そうではなくて、ファシズムの目的こそが反ユダヤ主義(を代表とするレイシズム)であり、大衆は積極的に賛同し、権力を支える力になったとみるべき。そうでないと、スターリニズム化のソ連での反ユダヤ主義の説明がつかない(アドルノが書いた時には情報が少なかったが。でもわかる人はいた)。
 参考になったのは、反ユダヤ主義者は自由主義者(リベラル)であることと、差別主義者は被差別者(がやっていると思い込んでいる妄想)を模倣(ミメーシス)しているという指摘。残念ながら指摘にとどまり、その先の考察をアドルノはしなかった。前者はたぶん経済的自由(競争)の原理を人権に持ち込んだという点で同意。後者は日本のレイシストをみると納得。やつらは、被差別者がやっていることをやり返しているのだと思い込んでいるからね。なので、言葉のやり取りではレイシストは改心しない。法による罰則と社会的制裁があり、社会全体がレイシストを許さないという雰囲気になっていないと、ヘイトスピーチヘイトクライムはなくならない。
(「反ユダヤ主義者は自由主義者(リベラル)である」にひっかかっている。自由主義者は政治参加をするが政治を担当する権力からの介入や制限を廃する。このような自由主義者の政治家らの自由は前段の政治参加を忘れると、たんに他人に介入されないことを自由であると曲解する。そうすると、他の民族や国籍が存在すること自体が他人からの介入であるという偏見と持ち、自由が侵害されているとおもう。そういう道筋を考えた。同様に、政治のことはすべてこちらでやるので、支持をすればよいという全体主義ファシズムが心地よい。面倒なことは任せられる全体主義自由主義の変形なのだろう。この節は自分が考えたこと。)

手記と草案 ・・・ いくつかをメモ。全体主義とは理性が通じない、対話不可能(なのでその理由を探るところから啓蒙に目を付けた、のだろうか)。ナチスは文化敵視と外国人憎悪。ファシストは落ちこぼれ(なので)、肉体嫌悪と他人への無関心を持つ。

ファシストが見せる自然や子供たちへのやさしさの前提は、迫害の意志である。彼らが子供の髪や動物の毛をもの憂げに撫でるとき、それが意味しているのは、この手でいつでも殺すことができる、ということなのだ(P401)」。

監獄は市民的労働世界の究極のイメージ。そこに収容される弱者、落ちこぼれは生活で苦しまなければならないと憎悪を持つ。
アーレントの目から見て、アドルノとホルクハイマーの手記や草案から重要そうな指摘を取り上げた。あいにく指摘だけで、深堀りしていかない。)

 

 アドルノは文芸評論や音楽評論では優れたアイデアをだすのだが、社会学的分析になると根拠のない思い込みになることがある。テオドール・アドルノ「音楽社会学序説」(平凡社ライブラリ)で感じたことが、本書の全体主義批判で繰り返される。アドルノの至らなさは、サマリーに書いたので繰り返さない。
 なるほどアドルノは遅れてきたロマン主義者なのだなあ。かつてありえた、しかし絶対に失われた素晴らしい場所の回復が重要なのであって、それは芸術と教養を身に着けることで実現可能。彼の目論見はこのあたり。
 もう一つ、本書で考えたのはナチスを押し上げたドイツ国民に対する配慮や気配りがあるのではないかという疑い。ファシズムの悪は、ナチスと文化産業にあって、国民はイデオロギープロパガンダに盲従させられたのだという説明になりそうな議論になっている。そうではなくて、やはりナチスを支援したのは大衆であり、大衆を孤立化・アトム化させた産業・資本主義で、という大きな見通しが必要だと思う。
 アドルノは1960-70年代に体制批判の論客としてずいぶん読まれたし権威をもっていた。おそらくアドルノの反権力・反技術・自然回帰(この「自然」も文脈によって意味が異なるので扱いがやっかい)などが共感されたのだろう。でも、今回の再読からすると、科学技術と実証主義への嫌悪には対象への無理解があるようで、参考になるところはなかった。
 四半世紀ほど断続的にアドルノを読んできたが、もう読むことはないな。


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