odd_hatchの読書ノート

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テオドール・アドルノ/マックス・ホルクハイマー「啓蒙の弁証法」(岩波書店)-1

 四半世紀ぶりの読み直し。かつて読んだときには、アドルノの近代批判、とくに数値化・要素還元主義への批判を読み取ろうとした。当時の関心が科学論、科学批判にあったから(別冊宝島現代思想のキーワード」1980年の影響)。
 今回の再読では、全体主義批判として読む。直前に、川崎修「ハンナ・アレント」(講談社学術文庫)を読んだのがきっかけ。アーレントアメリカの共和主義に可能性を見出したのだが、アドルノは本書でアメリカの大衆社会と文化産業をこっぴどく批判している(はず)。その片鱗はアドルノの音楽評論にもあったが、本書のほうが網羅されているのだろう。そういう期待と問題意識をもって、WW2の最中(アドルノもホルクハイマーもアメリカに亡命中)に書かれ、1947年に出た本を読む。

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序文(1944) ・・・ 全体の構成とサマリー。自由と啓蒙的思想(18世紀のカントやフランス啓蒙思想、サドなど)は不可分であった。しかしナポレオンの時から啓蒙は堕落・逸脱していき、20世紀の不幸・不合理(ファシズム)を招いた。経済発展は不公正を作り、少数のテクノクラートと大衆に分ける。前者の支配が強まり大衆は無力と従順さを身に着ける。経済の発展は文化を産業(ビジネス)とし、教養をつぶしてしまい、人間を利口にするが白痴(ママ)化する。啓蒙は自然的なものを支配する主体を確立しようとするが、自然的なもの(ファシズム)に支配されてしまう。その原因は啓蒙そのものにある。20世紀の反ユダヤ主義は非合理主義であるが、合理主義から生まれている。
(本書の前に川崎修「ハンナ・アレント」(講談社学術文庫)を読んだから、アーレント全体主義の起源」と比べたくなる。アーレントの歴史や政治、経済、文化などの行き届いた目配りに対して、アドルノ/ホルクハイマーの議論は(序文を見ている限りでは)雑。ヨーロッパ(の中の違いを無視)とアメリカをごっちゃにしている。歴史的経緯や事件を取り上げない。民族と国家が現れない。大衆分析も不十分、など。アドルノが教養を重視するのは音楽評論でよくわかるのだが、文化産業と大衆を見るにあたってはバイアスがかかりすぎているのではないか。)

啓蒙の概念 ・・・ 啓蒙は人間から恐怖を取り除き人間を支配者の地位にし、世界を呪術から解放するものと期待された。しかし啓蒙の結果、市場と技術がテクノクラートを生み、大衆を画一化させ、孤立化・アトム化することになった。それは啓蒙の方法である分析的方法、諸要素への還元、反省による解体が自然を支配することになり、ひいては人間を支配したのである。啓蒙の結果、非合理な信仰と化し、産業主義が人間の心を物象化したのである。
(この章では粗雑な議論をしているな、アーレントのち密な分析に及ぶべきもないな、という感想。啓蒙はどうやら哲学・科学・理性・ロゴス・実証主義などを網羅する概念らしい。啓蒙という概念が産業や労働などで波及する過程がよくわからない。啓蒙に対抗するのが呪術なのだろうが、この評価も揺れる。呪術が施行であった時代は人間と自然は親和的であったといっているようだが、近代・現代の呪術化した思考はだめのよう。脱線すると、アドルノ(に限らずドイツの人たち)は自然を、かつてあった人間の本来性が実現するファンタジックな状態と、実際に体験できる物理的な環境や生物群などを含むいわゆる自然をごっちゃにしている。前者の自然を体現・体験できるのは芸術(詩など)であり、人間的意味や自己の充実はここにおいてのみありうるとされる。こういう考えが歴史的社会的に語られるのだが、分析が粗雑すぎる。ことに次の章の「オデュッセイ」のセイレーン神話に労働と支配の原型をみるところ。アドルノは科学技術をよく知らないのも問題。啓蒙の方法を「分析的方法、諸要素への還元、反省による解体」とみるのは慧眼だと思うが、指摘だけ終わっているのが残念。どうやらアドルノは語りえぬイデアや理想状態があって、そこからの逸脱や不足が現実にあるという見方をし、人間性の統合や本来的あり方の回復は芸術においてのみ実現すると考えていそう。その見方は音楽評論には合っていると思うが、社会の具体的な分析には耐えられないのではないか。啓蒙が呪術に転嫁するというが、それは啓蒙を実践する活動@アーレントによって克服するという見方ができないせいではないか。)

オデュッセウスあるいは神話と啓蒙 ・・・ 啓蒙は古代からあって支配が行われるところにはつきものであった。神話が啓蒙に変わるドキュメントとしてホメーロスの「オデュッセイア」がある。前の章で「セイレーン」の章が合理的労働、隷属の起源であることをみたが、それに倣うとオデュッセイア自身が市民的個人のルーツである。彼には自己保存的理性があり、支配が目的の行動であった(そのサバイバルは古代の「ロビンソン漂流記」であり冒険商人である)。彼の冒険の数々は、法、契約、経済、男性支配などの起源でもある。
(おっと前の章で読んだはずの啓蒙概念が覆されてしまった。まあ、理性、自由、市民性は近代由来ではなく、古代からあったということなのだ。理性や自己保存が支配や隷属を生むという指摘だが、残念なのはオデュッセイアが支配するのは共同体の外の人々であることの言及がないこと。彼は放浪先の異民族、怪物、異神などを支配するのであって、帰還したさきの共同体を支配しようとはしない。)

ジュリエットあるいは啓蒙と道徳 ・・・ この章は文体と言い構成といい、アドルノのものではなさそう。啓蒙は、カントに典型的なように真理を科学的体形と同一視する哲学であり、ユダヤ的一神論の世俗化された形態、なんだそうだ。それまでの章の説明と合わないね。カントの啓蒙は、イマヌエル・カント「啓蒙とは何か/永遠平和のために」(光文社文庫)-1を参照のこと。で、通常は啓蒙からは程遠いところにあると思われるサドやニーチェにも啓蒙の考えが紛れ込んでいるとのこと。二人に共通するのは神と戦うところで、科学や実証主義を根拠にしているところに啓蒙の影響がみられるという。
(熱を入れて読まなかったのは、啓蒙が科学と資本主義を生んだように読み取れたが、そうじゃなくて後者が前者のもとになったのではないかと考えたので。あと、この章の議論だと、どこから支配者が出てきたのか説明できていないとも思った。)

 

 解説によると、「啓蒙の概念」と「サド論」はホルクハイマーが、「オデュッセイア論」と「文化産業論」はアドルノが主導的役割を果たしたとのこと。だいたいあっていた(「啓蒙の概念」はアドルノのものかと思ったけど)。
 同じく解説によると、啓蒙は文明的な過程という意味をもっているとのこと。で、啓蒙は文明に対する野蛮の克服としてあったが、啓蒙に内在する要因によって野蛮に転化してしまう。その表れが20世紀のファシズム。これが本書の見取り図。
 啓蒙(これもあいまい、あるいはいろんな意味をつけすぎ)がよくない、ダメだということを哲学で明らかにするにはここまでの分析でもいいのかもしれないが、ではどうするという活動を考えるには不十分なんだよなあ。支配者が行う啓蒙にどう対処するのか、それにのせられて野蛮になった大衆あるいは扇動集団にどう対抗するのか。どうして啓蒙から野蛮な集団が生まれるのか、経済的な富は野蛮を鎮めることはできないのか、野蛮におちいらない啓蒙の方法はないのか、社会が野蛮にならないようにするシステムや運用方法はないのか。そういう社会や政治、経済の視点がない。俺からすると、本書の議論をベースにした野蛮な集団や政治の分析が欲しい。
(多少アドルノらに忖度すれば、ナチズムとスターリニズムファシズムが西洋世界の半分を占拠していて、連合国が勝機を見いだせていないから、こういう悲観的な見通しになったのかもしれない。全体主義社会が大衆の広範な支持を持っていた時、それを内部から打ち壊す機会や方法などを見いだせなかっただろう。自国民からは抵抗運動がなかったし、マイノリティや非占領の市民が小さな抵抗をしていただけだったし。)

 

追記
 小宮正安「モーツァルトを「造った」男」(講談社現代新書)によると、「啓蒙」はその概念によって生まれた国民国家の諸制度もさすらしい。大学、監獄、工場、医療などの合理的でシステマティックな組織。その組織で働いたり、教育を受けたものが次世代の官僚やイノベーター、教師などになって、啓蒙を普及していく。アドルノらは社会システムに目を向けていたのかもしれないが、そのことが自分のぼんくらな眼には見つけられませんでした。
 ただ、アーレント全体主義の起源」によると、官僚制と合理主義のみでは「野蛮」な全体主義は生まれない。植民地経営とモッブに率いられた大衆運動が必要とされる。なのでアドルノらのモデルはヨーロッパの全体主義は説明できないが、日本のそれは説明できるかもしれない。

 

2021/12/07 テオドール・アドルノ/マックス・ホルクハイマー「啓蒙の弁証法」(岩波書店)-2 1947年に続く