odd_hatchの読書ノート

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夏目漱石「文鳥・夢十夜」(新潮文庫)-2 「思い出すことなど」は傑作。アイロニーの漱石は自分の生死にも自分を突き放して観察する。

2022/02/03 夏目漱石「文鳥・夢十夜」(新潮文庫)-1 1908年の続き

 

 感想が長くなったので、エントリーを分ける。

思い出すことなど 1911 ・・・ 発表の前年夏に修善寺で静養していたところ、突如大吐血。一時死亡との報もでた。秋の終わりに東京に転院し、翌年になって退院した。その病の記録。人を食っているなあと思うのは、これを書いた理由が、人があまりに問い合わせてくるので同じ説明を繰り返すのにうんざりしたから、というところ。冒頭で、漱石はこう趣旨を語るが、正岡子規中江兆民のような闘病記とは異なっているという。

「『思い出す事など』は平凡で低調な個人の病中における述懐と叙事に過ぎないが、その中(うち)にはこの陳腐ながら払底な趣が、珍らしくだいぶ這入(はい)って来るつもりである」

 最後に、漱石は本作を「アイロニー」というが、まさにそれは冒頭から徹底されている。よく表しているのが、漱石は西洋の文学思想書を渉猟して、その感想を書いていること。登場する人の名(表記はママ)をあげると、ゴルキー・アンドレエフ・イブセン・ツルゲニョフ・ドストイェフスキー・ドクインセイ(ここだけ注が必要だな、ド・クインシー)・ベルクソン・オイゲンなど。病中で読んだのはウィリアム・ジェームズ「多元的宇宙」、スティーブンソン「ヴァージニバス・ピュエリスク」など。これらの渉猟の後にいたるのは宇宙的ニヒリズム。仏教のような無の考えは念頭になくて、エントロピーが最大化した熱的死を想像して生のはかなさを感じる。そこには己が救われるとか、類的存在に仮託するとかはなく、そういう自己の思い入れもないところで意味がないことを書く。
 自分が30分間死んでいたことを後に知る。

「妻の説明を聞いた時余は死とはそれほどはかないものかと思った。そうして余の頭の上にしかく卒然と閃きらめいた生死二面の対照の、いかにも急劇でかつ没交渉なのに深く感じた。どう考えてもこの懸隔(かけへだっ)た二つの現象に、同じ自分が支配されたとは納得できなかった」

 という具合に、書いている自分は過去の死んでいたのかそうでないのかわからない自分を突き放して描写する。ここには自己憐憫もないし、大悟した安堵もない。あるいは超越者の立場になって客観を仮構するわけでもない。まるで博物学者が採集した個物を解剖・観察するかのよう。あくまで自分に起きたことを自分の視点で描く。でも見えるのは第三者としての自分で、書く内容も他人事のよう。それは自分の肉体でもそう。数か月の横臥によって筋肉が削げて立ち居振る舞いが思うようにできなくなる。それに対して身体の不思議さを書くが、愚痴や不満は書かない。ここまで自分を客観視する人も珍しい(でも、書いていないところでは、妻子に八つ当たりしていたのだろうなあとは思うが)。
 とはいえ、多くの人の支援は身に染みたと見える。

「仰向(あおむけ)に寝た余は、天井を見つめながら、世の人は皆自分より親切なものだと思った。住悪(すみに)くいとのみ観じた世界にたちまち暖かな風が吹いた。」

こういう述懐になると、「坊ちゃん」の「おれ」や「草枕」の「余」のように非人情の世界にこもることはできなくなる。このあと、人情の世界で人を描くことになるだろう。でも、世界や社会への違和感は残るもの。

「余は常に好意の干乾びた社会に存在する自分をぎごちなく感じた。」

 身体のみならず、存在そのものが人情の世界にあっては「ぎごちなく感じ」る。そういう性向は自分にもあるので、漱石のいっていることはよく「わかる」(でも互いに友達になることはないだろう)。
 「修善寺の大患」を夏目漱石の転換点とする見方がある。どうだろう。作中にドストエフスキーの銃殺刑体験が書かれているから、そこからの連想なのかも。
 漱石が読んだり感想を書きつけたりしているのは西洋の書物やできごと。そこから見えるのは、20世紀初頭に「自然哲学」「生の哲学」が流行っていて、進化論が日本のインテリに知られていて、神霊学(スピリチュアリズム)もブームになっていた。漱石が気晴らしにするのは俳句に漢詩。いずれも日本の伝統とは切れている(俳句は子規が新しい概念を提唱して革新された創作活動)。つくづく、この人は非日本に興味と関心をもっていた。病中、漱石が読んだ本は今でも入手可能。

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ケーベル先生 1911 ・・・ 東京帝大で教鞭をとったラファエル・フォン・ケーベルの思い出。漱石より約20歳年長。

ja.wikipedia.org


 63歳になったケーベル先生の思い出。漱石の院生時代の講義や書斎の本棚、彼の嗜好などをスケッチ。漱石は英文学を研究し、彼より前に英文学を勉強した日本人はいないから、ケーベル先生の指導を仰ぐしかない。それが敬慕や尊敬の念に転化するのはなぜだろう。同時代のインドでもイギリスの学者が多数教鞭をとっていたが、インドの知識人はこのような全的な信頼を寄せたことがないのではないか(ガンジーネルーくらいしか知らないが)。

ケーベル先生の告別 1914 ・・・ 8月に帰国するケーベル先生へのあいさつ(WW1勃発のため帰国は中止)。金と名声に無頓着で、生活に関心を持たなかった独身のケーベル先生への思慕。ケーベル先生は母国では散歩が趣味なのに、日本では歩かない。著名人や地名を覚えない。多分日本語も覚えなかった。彼は帰国する機会を逃して日本に永住することになったが、日本に同化しようとはしなかった。漱石ら門下生も、日本を理解したお雇い外国人として尊敬したのではなく、あくまで西洋の思想と教養と文化を持っているものとして彼を尊敬した。日本の国籍を取得したが、学界には受け入れられず、松江で亡くなったラフカディオ・ハーンとの違いはどこ?

 

 漱石は日本において余計者、価値のない者と自分を見ていたのではないか。日本の文物や伝統にはほとんど関心を持たず、日本的でないものにだけ関心をもつ(上でみたように俳句も。自分には残念ながら西洋音楽に関心をもたなかったのは残念。ほぼ同時期に西洋を渡り歩いた永井荷風は西洋古典音楽を楽しんだのだが)。しかもおそらく自閉的。周囲の人に関心を持たず、付き合いもほどほどに(でも抜群の知性と知識に周囲の人が放っておかない)。とくに「思い出すことなど」でその傾向がよくわかる。
 なるほど、これまで「倫敦消息」「倫敦塔」から発表順に著作を読んできたが、語り手や主人公の性向には漱石自身の傾向が反映されている。日本の人情世界を居心地悪く感じ、周囲から疎外される人の苦悩がつねに書かれている。

 

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