odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

夏目漱石「二百十日・野分」(新潮文庫)

 「草枕」の次に書かれた中編二つが収録されている。

二百十日 1906 ・・・ 東京住まいの圭さんと碌さんが連れ立って、阿蘇に上る。道中、二百十日の大雨にあってずぶぬれ。足を痛めたので登山はあきらめる。できごとはこれだけ。何が書かれているかというと、圭さんと碌さんの無内容な、しかし妙に論理的な会話。喧嘩や言い合いになりそうなのに、互いに引き下がって悪口の応酬でおわる。うどんでは腹もちがしないなどしつこく繰り返すことはあっても、怨恨にはいたらない。なるほどこれが漱石のいう「非人情」の会話か。「琴のそら音」「一夜」の会話を引き延ばすと、この中編になるのだろう。主題はなくて、技術で書いた小説。(角川文庫は「草枕」のうしろに「二百十日」を組んで一冊にしている。主題も語り手も似ているので、その判断を支持。)
 途中こんな会話が出る。

「おおおい」
「おおおい。どこだ」
「おおおい。ここだ」
「どこだああ」
「ここだああ。」

 宮武外骨が「滑稽新聞」(1901-1908)で、近頃の小説は無内容な会話で改行を増やすのが多いと指摘していたが、まさにこれ。

 

野分 1907 ・・・ 文学士の白井道也は卒業後教職についたが、同僚や地元と折り合いがつかなく3回も辞職した。もう教職はこりごりと東京にもどって文筆生活を開始する。社会批判、金持ち批判をする白井は評判が悪く(この時代から社会主義者労働組合員への弾圧が強化される。参考:荒畑寒村「自伝」)、生活は成り立たない。細君に責められるも、白井はのらりくらりとするしかない。白井がかつて教師だったとき、いじめて追い出した高柳君がいる。友人の中野君から白井を知り、どうやら追い出した当人であるとわかる。後ろめたさもあって白井のところに通いだす。白井の考えに感化されたものの、高柳は肺病が進行していた。富裕な中野君は百円だすから(現在価格で一千万円くらいか?)、転地療養しろ、その金は君が書きたがっている本の原稿で返済すればよいという。転地のあいさつに白井を訪ねると、彼も百円の返済を迫られていた・・・。とてもトリッキーな小説。本筋が何かわからない小説だったのが、ページ数が残り一割になったところで、どんでん返しが何度も続く。読者が唖然としたところで「完」の文字が出る。彼らはどうなったのかを知る由もなく、読者は不安なところに置いてけぼりにされた。漱石先生、こんな技術の持ち主でしたか、お見それしました。
 漱石はうつだったという説もあるらしいが(詳細不明)、白井道也と高柳(周作)くんはふたりとも癇の強い自閉的な性向の持ち主。癪に障ることがあると、無鉄砲にも自己破壊的な衝動を起こして、職を辞してしまう。そうして職を探そうとすると、自尊心が傷つけられるので、他人と協調することができない。そのために、自宅に引きこもり、人付き合いを止めてしまう。「坊ちゃん」の「おれ」は失敗や辞職で傷つかなかったから次の職を得られたけど、もう少し年を取った白井はそうできない。高柳君は社会に出ることが怖くてならない。独りぼっちであることを自覚していて、しかしコミュニケーションをとることはできない。自己評価の低さが他人への嫌悪に転化していて、社会や世間の流行りも侮蔑するようになっている。同時代や同世代に関心を持たれることを期待していないので、彼らは自分らを超えた歴史に名を残したいと欲望する。なんとも転倒した考え。こういう行動性向は、このあとの漱石の主人公にたくさん出てくるなあ。
 高柳君の友人・中野貴一(春台)君は実業家で大金持ち。人との付き合いは良いし、スノッブであるが、他人を見る眼は厳しい。中野君には高柳君がこう見える。

「好んで一人坊っちになって、世の中をみんな敵(かたき)のように思う」
「自分で不愉快の眼鏡を掛けて世の中を見て、見られる僕らまでを不愉快にする必要はないじゃないか」

 スノッブで金持ちな中野君には他人の苦労もなにか企んでいるのではないか、好きでやっているのだろうと、シニカルにニヒルに眺める癖があるので、この言も割引が必要だと思う(「見られる僕らまでを不愉快にする必要はないじゃないか」とは言ってはいけない、相手の退路を塞いでしまう)が、言われる側は思い当たる節があるので、ドキとする。自閉的な人には自己懲罰の傾向があって、白井も高柳君も自分が社会や家族の役に立っていないのではないかと自問しているのだから。
 この小説で注目するのは、主人公の白井道也が妻帯者であること。「 坊ちゃん」から「二百十日」までの主人公はみな独身。賄い付きの下宿住まいか旅館に滞留中なので、身の回りは他人がやってくれた。白井の場合は、細君がいて、家事全般を引き受けている。当時のことなので、家事は女性の役割。その大変さを白井は理解できない。くわえてこれも当時のことなので、強いミソジニーを持っている。それは言動の端々にでて、細君をいら立たせる。細君の心理が書かれていて、生活の側からの白井道也批判が出ているのが重要。「仕事しろ」「家に金を入れろ」「時には愛想よくしろ」など。西洋の小説では細君の愚痴と喧嘩はそれだけで主題になるけど、「野分」では回避される。のちの小説ではテーマになった(はずだけどそうだっけ?)。でもここまで主張し、夫の就業に手を回す細君はいたかしら。
 白井道也の考えの核心はこれだろう。

「文学は人生そのものである。苦痛にあれ、困窮にあれ、 窮愁にあれ、凡(およ)そ人生の行路にあたるものはすなわち文学で、それらを甞(な)め得たものが文学者である。(白井道也)」

 この考えは漱石の発案なのか別の作家が言い出したことか、いずれにせよ長い間日本の作家を呪縛することになった。生活と労作の間に違いをみいださず、克己努力し、修養して人格の完成にいそしめ。芸術か生活か、いずれかを選べ。選んだら他方は捨てて、一つことにまい進せよ。この呪縛は藤村を苦しめ、私小説作家を束縛し、無頼派に自己嫌悪をもたらした。作家自身が生み出した呪縛であるが、読者も縛り付けたと思う。解放されるのは1980年代になってからか(二人の村上あたりを想定)。
(江戸時代からある武道や茶道などの芸事ではこういう取捨選択は要請されない。いずれも両立できるような仕組みができていたからだ。でも西洋から入ってきた小説や学芸は「道」であるように強要されてしまった。くわえて、小説を選択した者は「不良」「余計者」などのレッテルが張られて侮蔑させるようになる。それは純文学や社会批判の小説を書くものに対してだけで、大衆小説や講談の書き手は尊敬される。このような知識嫌悪・学芸嫌悪・西洋嫌悪はどこから生まれたのだろうなあ。)
 重要なことを忘れた。教職からはじき出された白井道也は、物書きになると宣言して、「人格論」という大著を書き上げる。その内容は社会批判、知識人批判、政権批判など「激烈」な内容。それは細君を通じて、親族の知るところになり、道也の兄の耳に入る(道也は絶縁したつもり)。すると、兄は勤務先の会社から注意を受ける。人の関係がとても濃厚で、集団や組織の都合が個人の思惑よりも優先される。結果、兄は細君を通じて道也を社会の機構に入るように仕向ける。明治の時代にどういう圧力が個人にかかっていたかがよくわかる事例。のちの小説は、社会や集団、世間の圧力にどう向き合うかがテーマになる(はず)。漱石は抵抗するキャラクターを作らなかった(はず)だが、実際には堺利彦荒畑寒村などの社会主義者がいたし、幸徳秋水大杉栄小林多喜二のような虐殺された人もいた。漱石は彼らを知らなかったのか、目を向けなかったのか(は大きな研究テーマになっているはずで、乃木の殉死は取り上げても、大逆事件には沈黙した)。

 なんとも奇妙な小説。特にうっとうしいのは、名を持たない語り手(すなわち作者)が顔を出して頻繁に批評や説教、うんちくを述べるところ。そのシーンに登場するキャラクターの気分や思想に合わない、凡庸な説教や人生訓は読書の興を削ぐ(「草枕」はそういうことにはならなかった)。細かく検討するほどの熱意をもって読むことはしなかったが(研究者が由来を調べているだろうから任せる)、だいたいにおいては現状維持や体制擁護になる発言。そういう保守的なところをみせながら、最後に高柳君に(消極的な)抵抗を示した。「坊ちゃん」の「おれ」のような痛快な抵抗をできなかったのは身体の活力にかけているせいか(肺病で余命がないことを自覚)。社会や世間に抵抗するキャラクターは高柳君が最後なのではないかなあ。あとのキャラクターは白井道也に似た人で、諦念とニヒリズムでひきこもっていたからなあ(「それから」「」「こころ」などの印象で)。そういう点では漱石には珍しい作。でも、この枚数では白井も高柳も十分に描ききれなかった(ただ、白井や高柳は日本の知識人・インテリの典型であるようだし、中野君の本人はモッブ(@アーレント)であるのに大衆嫌悪を示すのも日本のあるクラスの典型。そういう類型を漱石はよく摘出したと思う。くわえて俺の行動性向は白井や高柳に近いので親近感を持つ)。失敗作なのに、語ることが多いという不思議。

 

 漱石はロンドンに留学したが、西洋音楽には関心を持たなかったようだ(NHK-FMのクラシックの迷宮で漱石と音楽を特集した時(2017/2/4)、漱石が聞いただろう音楽をあげることはできなかったくらい。「野分」では二回西洋音楽の演奏会が描写される。それを聞かされる高柳君はぼんやりしているし、中野君は聞きに来ている人に知人がいないか探ることに熱心。音楽を鑑賞・解釈するまでには至らない。まだSPもほとんど販売されていないし、外人演奏家も来ていないとなると、西洋音楽には冷淡になるしかないか(ほぼ同時期にアメリカからフランスを漫遊した永井荷風は演奏会の常連になる。堀田善衛「記念碑」になると、1936年の新響演奏会には満員の聴衆があつまるようになる)。
 かわりに西洋文芸にはうんちくを披露。ここでもシェイクスピア、メリメ、ミロのヴィーナスなどが話題になる。ここでわかるのは20世紀初頭のラジオ、レコード、映画のない時代では西洋はテキストで知るものだった。