もしかしたら漱石の「吾輩は猫である」は探偵小説として読めるのではないか、という試み。ときに漱石の原文をそのまま引用(「天璋院様のご祐筆・・・」のくだりなど)したり、原作のシーンを別視点で書き直したりしているので、原本を読んだうえで本書に取り組むことを推奨します。
探偵小説好きの僕はひょんなことから先生の家に書生として住み込むことになった。/先生は癇癪持ちで、世間知らず。書生の扱いときたら猫以下だ。/家には先生以上の“超変人”が集まり、次々に奇妙奇天烈な事件が舞い込んでくる。/後始末をするのは、なぜかいつも僕の仕事だ。/先生曰く、「だって君、書生だろ?」。/『吾輩は猫である』の物語世界がミステリーとしてよみがえる。/ユーモアあふれる“日常の謎”連作集!
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吾輩は猫でない? ・・・ 車屋が「苦沙弥」先生のところに、おまえんちの猫が鼠を捕りすぎて困ると文句を言いに来た。もちろん猫の「吾輩」はネズミを捕るはずがない。先生は「僕」を連れ出し、鼠捕りを試みる(漱石「猫」で「吾輩」がしでかした失態の繰り返し)。鼠の代わりにイタチが出てきて、「僕」は鼠捕りの真相に思い当たる。(漱石の本歌では背景にある日露戦争がここでは前面に。「猫」が書かれた理由が明らかになる。)
猫は踊る ・・・ 猫が踊り、三毛が死ぬ。旅順陥落の元旦に、先生の家で「首くくりの力学」の演説が練習され、株屋が株を進め、トチメンボーたあなんだいという問答があり、「天璋院様の・・・」二絃琴の師匠の話を聞き、三毛の死の真相にたどり着く。
泥棒と鼻恋 ・・・ 春になって、寒月に縁談が持ち込まれ、金田夫婦の鼻子さんが物笑いになり、九州帰りの多々良君がビールを預かり、先生と散歩に出る。これらのつなぐひとつの糸。誰が先生の山の芋を盗んだのか。
矯風演芸会 ・・・ 迷亭、寒月らの集まる席に越智東風がやってきてタイトルの演芸会をしないかと提案した。第一回がめちゃくちゃになったというと、寒月は俳劇を試そうといい、先生は新体詩の朗読をしようと言い出し、落語にこんにゃく問答まででて、話はなにもまとまらないまま終わる。先生の家では探偵が聞き耳を立てているというのを思い出し、「僕」は東風にさっきの話の意味を聞いてみる。ある一本の補助線を加えることによって、マッドティーパーティがとても重要な話し合いであったことがわかる。この解釈は見事。
落雲館大戦争 ・・・ 隣接する中学校と先生の間で「戦争」が始まった。実は、米国から輸入したベースボールの用具一式が寄贈されたために起きた練習と試合のことだった。先生は医者に薬の処方と催眠術をしてもらったら、翌日には「戦争」がピタッと終結してしまった。
春風影裏に猫が家出する ・・・ 寒月君の結婚話が消え、代わりに多々良君が金田の令嬢と結婚することになり、猫が失踪する。先生が飼いだしてから2年たって初めて猫の名を呼ぶ。
漱石の「吾輩は猫である」は語り手が猫であるので、行動範囲の中のできごとしか書かれない(かわりに先生の読んだ本を読んでいるので、古今東西の故事来歴などを自在に引用する)。そのために情報が限定されているので、おかしなことや謎が起きても解決に至ることはない。なにしろ猫だから人間の正義や善には無関心。しかも先生にしろ迷亭、寒月、多々良に越智東風などもシニシズムとニヒリズムで他人のことにかまうことはない。
そこで、無名無個性の書生「僕」を登場させることによって、常識や理性などを導入する。すると、猫の行動範囲を超えた時代の状況も見えてくる。この場合は日露戦争だし、孫文だし、米国からの文化輸入だし。すると、先生たちは超俗的な暮らしをしているように見えて、実のところは政治や社会に汲々としているのかもしれない。猫(あるいは漱石)が書かなかったことから、当時の時代を髣髴させよう、というのが本書のねらい。その視点からは「矯風演芸会」が白眉。見事な読み替えでした。
同じやり方は「贋作「坊ちゃん」殺人事件」(集英社文庫)のほうが徹底されていた。
とはいえ、漱石の全小説を読み終えてから本書を読むと、先生は鬱気質なのでこんなに行動的ではないし、政治的ではないし、奇行を繰り返すものではないし、妻や御三にはもっと攻撃的侮蔑的であるよなあとぼやきたくなるが、本書のテーマや成果に全く関係ないので、ここまで。
同じ著者による夏目漱石自身が探偵になる小説。
柳広司「吾輩はシャーロック・ホームズである」(角川文庫)