odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

広瀬正「マイナス・ゼロ」(集英社文庫) タイムマシーンテーマで、ハインライン「時の門」への挑戦。もっとも力が入っているのは、昭和7年の東京の風俗描写。

 昭和20年5月。電気に詳しい14歳の少年は隣りの家にいるお姉さんにあこがれている。空襲のさなか、少年は偏屈な老人科学者と同居するお姉さんを助けに行くと、老人は倒れメモを残す。お姉さんはどこにもいない。それから18年後の1963年、32歳になった男はメモに書かれた住所を訪れると、奇妙な老人にあう。許しを得ると、敷地内に突如現れたなにものかから、年を取っていないお姉さん(男の目からすると少女)が現れた。妙にものわかりのよい少女を残して、なにものかを調べると、男ごと昭和7年(1932年)に飛ばされる。持ち合わせた財布の金を使って、鳶の家に居候する。この時代には、なにものか(ウェルズの「タイム・マシーン」だと推理した)がありそうな建物も居住者もいない。すると、誤操作で一年度に送ってしまったタイム・マシーンが戻るまで、喰いつがねばならない。あるのは数十年進んだ電気知識と技術のみ。就職はままならず、商売でどうにかしようと悪戦苦闘。ようやくその日を迎えようかという日、男に召集令状赤紙)が届いた。逃げ隠れすることもままならず、男は出兵することになる。

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 もっとも力が入っているのは、昭和7年の東京の風俗描写。食い物、建物、服装、流行、技術、商品、時事など丹念に細かく描かれる。著者自身がこの時代を詳しく調査したそうで、国産自動車の外観やスペック、乗り心地までが一読でわかる。そういう風俗情報にはときに思いがけない発見がある。

「「キミ、ボクの横に坐りなよ」/(略)この男言葉は、いま人気の松竹少女歌劇のスター水の江滝子のまねで、若い女性の間で大流行なのである(P257)」

 ユニセックスの普及は1970年代かと思ったら、それよりも早い。しかも発信源は少女歌劇だというのも驚き。こういうのは、通常の歴史書にはでてこないので、丹念に集めないといけない。解説の星新一

「昭和十年代に書かれた風俗小説はたくさんあるが、いまはほとんど読まれていないらしい。古びてしまったのだ(P434)」

と書くが、古びたのは風俗や小説ではなく、文体。当時の流行雑誌「新青年」のなかで今も読める文体を持っているのは、江戸川乱歩横溝正史くらいであるのがその証左。
鮎川哲也編「怪奇探偵小説集 2」(ハルキ文庫)
松山巌「乱歩と東京」(ちくま学芸文庫)
横溝正史「恐ろしき四月馬鹿」(角川文庫)
  小説はタイムマシーンテーマで、ハインライン「時の門」への挑戦。通常、タイムパラドックスではある人物が過去に戻った場合、1.元の人物はいなくなる、2.顔合わせすることを回避、3.元の人物を会っても何も起きない、のいずれかが選ばれる。ここでは2を意識した3をとる。なので、過去への介入はバタフライ効果を生み出さず、おおむねの歴史は変更されないことになる。したがって、1963年の邂逅は問題ないのだ。これは「時の門」も同じ。ただそれでは長編がもたないので、もう一つアイデアを入れている(さすがと書けないので、秘密の日誌に書いておこう)。
 ここにはロバート・ネイサン「ジェニーの肖像」(ハヤカワ文庫)の物語もはいっている。冒頭の章でそれはわかったが、しばらく現れないのでやきもきしていたが、ちゃんとあとで現れました。邦訳は本書(1970年)より後だと思うが、1948年の映画が放送されていたから情報はあっただろう。
 アイデアと構成の妙、それに戦前の時代考証でなかなかに読ませたのだけど、この硬い文章にはどうにも読書の興がわかず、くわえて語り手の強いミソジニーが煩わしかった。
 本書で注目したのは、1932年のシーン。語り手は鳶の家に居候する。電気工学の知識をもち、すでに起きていることを知っているので未来を予見できる。この情報格差のために、鳶の家のものたちは彼を畏怖し、丁重に扱う。語り手はそのことを不審がるでもなく、当然のこととして受け入れ、彼らに命令や指示をだすことがある。語り手のもっていた大金のせいもあり、彼らは命令や指示を受け入れ、その先に踏み込んだ世話もする。戦前では中等教育以上を受ける人はきわめて少ないので、大学を卒業して学士になることは異なる社会的な階層になることだった。なので、語り手と鳶の一家の関係はインテリと大衆の関係であるとみることができる。そこでは、インテリの指導を大衆が受け入れ、大衆がインテリを支援するという図式がある。
 それが1950年代になると、インテリの間で「大衆」論がでてくる。まあ上のような図式のままでいいのか、大衆の中に入らんといかんのじゃないかという主張とそれはおかしいという主張が相克するようなものだった。今にして思うと、この議論は1970年代になって高等教育を受けることが珍しいことではなくなり、ほぼすべてが中等教育をうけるようになって雲散霧消する。みな知識を持つようになって無学文盲ではなくなりちょぼちょぼのインテリ風になることができた(そのかわり大知識人というのはいなくなったけど)。そこにおいてインテリvs大衆という階層区分がなくなった。振り返ると、インテリvs大衆という区分は収入の差異でもあったのだが、それは「一億総中流」となった1970年代に経済的理由でも無効になったといえそう。
 そんなことを考えた。

 

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