1976年初出の本作中でなんどか「奇術が魔術と間違われていて困る」と嘆くのは、その直前にオカルトブームがあり、奇術者が超能力者としてテレビで「超常現象」と称してマジックを披露していたことがあるから。ユリ・ゲラーからチャネリングまで、人々を誤解させる奇術者がいたのだ。そういうのがなくなったのは詐欺師のデバンキングが進んだことと奇術者が積極的に誤解を解こうとしたことがあるだろう。閑話休題。
ある町のアマチュア奇術グループが公民館でショーを開く。なにぶん舞台に上がる回数は少ないので、ドジやへまが頻出。グダグダになりかねないところ(あと、子供が悪童ばかりになっているが、当時の子供はそんなに大人にいじわるをしたか?)。ショーの終わりに袋の中で入れ替わるマジックをする。飛び出す予定の出演者がなぜか登場しない。フィナーレでも彼女が人目を集めるはずだったのが、不在のために盛り上がりに欠けてしまった。いぶかる一同に、その出演者が自宅のアパートで殺されているとの報が届く。被害者は鈍器で殴られたうえ、なぜかガス管を開けていた。そのうえ死体の周囲には、奇術グループ主催者が書いた小説の小道具が並べられていて、全部壊されている。
そこで、作中作の「11枚のとらんぷ」を読む。これは舞台では上演できないタイプのトリックを創案したとき、捨てるのがもったいないので、小説形式で記録したもの。登場人物は奇術グループのひとたちそのもの。小説の中のキャラは自分らがモデルになった小説を読むといういささか気恥ずかしい状況であるが、読者の物理現実では一続きのもののように思われる。いっぽうで、作中作は一つの書物のように編集されているので、読者はキャラの連続性がないものと強制的に思わされる。あえて小説のなかのレベルを混乱させることで、幻惑感をだす。それに、小説中のリアルではカードトリック(術者にはわからない数字とマークの書いてあるほうのカードの「表」をあてるというもの)が問題にされる。そのトリックがシンプルであるが意表を突き、かつ実現可能と思わせるもので、そちらの謎解きに夢中になる(20歳の初読時はまさにそうでした)。その結果、作中のリアルな殺人事件のことをすっかり失念する次第になる。
ミステリー好きがミステリー愛好家のために書いたミステリー。アマチュア奇術愛好家たちのショーがドタバタになっているところからページごとに周到な伏線が張られていて、作中作のショートショート11編にも手掛かりがあり、読み飛ばすような蘊蓄語りもまた事件の解決に関係しているという次第。これだけ手の込んだ本邦のミステリーはちょっと思い当たらない。派手なトリックなしでもミステリーは成立することを見事に立証。なにしろ登場人物が全員奇術を知っているので、機械的なトリックや安易なミスディレクションはすぐに見破られてしまうのだ。通常のミステリーの犯人になるには、ハードルの高すぎる設定が課されているのである。
これが作者の長編第1作。このあとも、手の込んだミステリーを書き、書物という形式を破ろうとする試みを繰り返す。それは最初の作から顕著であった。四半世紀以上よりずっと前に読んだ学生の時に、すごさがわからなかった。自分の眼は低かった(理由ははっきりしていて、社会や哲学などのもんだいを発見できなかったからに他ならない。スノッブだったのだ)。
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