odd_hatchの読書ノート

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淀川長治「映画が教えてくれた大切なこと」(扶桑社文庫) 1930年ころまでの神戸の記憶。今東光や横溝正史が青春を過ごしていた。

 淀川長治は1909年(明治42年)4月10日生まれ。幼稚園のころから親と一緒に映画館に行き、小学生にはひとりで入るようになる。彼は神戸に住んでいた。その思い出話が美しい。ちなみに同じ時代の神戸には、今東光横溝正史が青春を過ごしていた。
淀川長治「自伝」

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 本書前半は、1930年ころまでの神戸の記憶。ここは本人の語りを聞くのがよいので、引用する。

「神戸は活動写真を生活の一部にしていた。このことはおおげさと思われるであろうが、神戸、私の生まれた兵庫の西柳原の町の人たちは「今夜見に行きまんねん」、これが夕食どきのあいさつだった(P13)」
「神戸では昔から西洋人が町を行く。それゆえ神戸の映画館とくに新開地は、必ず映画館の表に大きな外国直送のポスターを飾ったものだった。(P15)」

「神戸のそのころの映画館(もちろんまだ活動写真館と呼んだころ)の入り口で入場者に配るプログラムは、いまの郵便はがきの二倍くらいのベラベラ一枚の印刷物ではあるのだが、そのスペースの半分は英文だったので、それがまた少年の私には英語の勉強ともなった。神戸は外国人がたくさん映画館に来るゆえ、そのようなプログラムがどの館にも用意されているのであった。(P17)」

 無声映画と伴奏音楽について。

「だいたい活動写真が発明されたころ、写真が現実そのまま生きるがごとく動くというので、ただちに工夫されたのが音、それも歌う声。そこでオペラ歌手に歌わせタイムを計り、チクオンキの手回しハンドルでレコードの声を画面と合わせたが、声は二度三度とずれて、画面と合わず大失敗。そのため、サイレント時代は歌をあきらめてダンス。大正初めから昭和初めまではダンス、ダンス、ダンス。タンゴにチャールストンにブラック・ボトム(ニュー・ステップ)。すべてこれ映画館は生伴奏でダンスならダーダネラ。タンゴならアルゼンチン・タンゴなんでも。チャールストンならフーにテルミにチチナと行きあたりばったり。(P235)」

(1920-30年代の欧米探偵小説を読むと、ラジオを聞きながらダンスをするシーンがでてくる。すると、映画を見てダンスのステップを覚え、自宅などに人が集まってラジオから流れるダンス音楽を聴きながらみんなで踊るという習俗があったのだろう。)

「神戸の朝日館にはエンドウ氏という日本の第一級と称されたバイオリニストが伴奏の一員に招かれて、このエンドウ氏のバイオリンのソロで映画が始まった(P22)」
「『紅燈祭』は神戸の町中に話題をまき、それも原名の『レッド・ランタァン』の呼び名で期待を集め、このためキネマ倶楽部は神戸の楽器店からだけでなく中国楽器の胡弓からドラから、さらに日本のお寺の木魚までをも加えて壮麗なる本格的伴奏をおこなったものだった。(P23)」

 神戸は貿易港であったので、中国や欧米の商館が立ち並び、外国人がたくさん住んでいたのだった。なので、各種の舶来ものを集めることができた。
 世界的バレエダンサー、アンナ・パブロワの記憶。

「外国からの豪華船はすべて神戸に入港した。それでパブロワもルス・セント・デニスもメイ・ランファンその他もっともっと、神戸からまず日本を見た。そして横浜に移って東京へと興行を広げていった。(P28)」

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「私は忘れもしない一九一三(大正十一)年に、神戸の緊楽館でこのパブロワを見た。私の十三歳の時である。七十年以上も前のことなのに、今も鮮やかにその舞台は目に浮かぶ。(略)そのころは劇場内はすべてほとんど着物であった。西洋人と日本の軍人とお役人だけが洋服だった。パブロワの夜、デニショウンの夜、自動車、人力車が、その緊楽館の入口を埋めた。両親と三人の子供が晴れ着姿で打ち揃って一等席におさまる晴れやかさ。そのころ映画館が二十銭の入場料なのに、パブロワは特等が十五円。今にすると十万円近い金であったのに、緊楽館は夜の八時からの開幕に七時ごろには、もう満席だった。(P209-212)」

 付け加えると、当時は世界周遊は巨大観光船で大洋を横断するしかない。欧州からの航路はインド洋経由でシンガポール、香港などを通過してきたので、西から日本に来たのだ。外国船に開かれていた港はまずは神戸だった。1920年代のアインシュタインチャップリンも同様に神戸に到着して上陸した。横浜や芝に到着するようになったのは1930年代になってからだろうか。羽田空港に国際線飛行機が乗り入れた昭和30年代から、外国の有名人は羽田で飛行機から降りるようになる。
 グリフィス「イントレランス」の衝撃。とくに入場料について。

「神戸の緊楽館でグリフィスの『イントレランス』を見たとき、私はただもうびっくりした。劇場につめかける人たちには、あたかも海外の最高の芸術家のなまの舞台見るがごとき意気込みを、子供ながらに感じとった。東京の帝劇では、この年のこの上映には入場料金十円を取った。そのころは歌舜伎座の歌群伎でさえ五円というころだった。池波正太郎サイレント映画末期のポーゼージの「第七天国」などを見たあのころは、と新聞紙上で語りながら入場料は五十銭だったと述べているのを読んだとき、そのころの映画よりはずうーっとはるかに古い『イントレランス』の帝劇の入場料十円、この値段を改めて思ってみた。(P228)」

(この法外なチケット価格が載った広告が、天野祐吉嘘八百」文春文庫にあった。)

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 チャップリンの記憶。

「一九一六(大正五)年にもう日本の映画館で「チャップリン大会」の呼びこみでチャップリンの一巻ものを集めて興行している。同年にアメリカの新聞が「アメリカの誇り」を募集したところ、ウィルソン大統領とチャップリンの二人が同点のトップであったそうだ。(P45)」
「(チャップリン長編映画は「黄金狂時代」以降)どの一本もがこれが最後の覚悟を思わせた(P47)」

 これらの証言は御園京平「活弁時代」(岩波同時代ライブラリ)の記録に重なる。というか、のちに調べて分かったことをすでに証言していたわけだ。淀長さんは活動弁士を好みにしていなかったのか、話題にしていない。代わりに楽士の話題が出てくる。当時の写真をどこからか探して掲載しているので、淀長さんの語りと一緒に、雰囲気を楽しもう。

 日本の映画黎明期の記憶の次は、好みの監督の話が登場。チャップリンフェリーニヴィスコンティラッセル、黒澤明、アレン、ヴェンダースら。淀長さんの膨大な映画の記憶は、新作を見てもはるか前の、しかも場所を変えた映画を連想させる。そうすると、およそ凡庸な人は思いつかないようなことを指摘する。

「あの「羅生門』にすでに根ざしていた能の手法が、それから三十年たった『影武者』にはもっと鮮やかになって、黒津一流の映画の流れさえ吹き飛ばすほどの能の感覚にしみぬかれてきているのであった。(P101-102)」
「『薔薇の名前』は中世の寺院のなかの謎をさぐる、いうならば僧侶と稚児の『雨月物語』のごときクラシック(P200)」
ケビン・コスナーの『ダンス・ウィズ・ウルブズ」、これはサイレント初期から続いて三回も映画になった白人とインディアン物語の「ザ・スクォマン」の焼き直し。(P192)」

 引用しなかったのものでは、アノーの「愛人」をグリフィスの「散り行く花」に、ギリアムの「未来世紀ブラジル」をチャップリンの「モダンタイムズ」に、スピルバーグ「ジェラシック・パーク」を「恐竜ガウティ」に並べる。その突飛のなさと比較の的確さにうなるしかない。
 特撮映画好きなので、「ロスト・ワールド」1925年は押さえていたが、「恐竜ガウティ」など聞いたこともなかった。

「まさにこの映画こそは活動写真の元祖。映画が生まれてまもなくウィンゾア・マッケイという漫画家が白地に黒の線画で『恐竜ガウティ』を発表したのが一九○九年。それ以来恐竜は活動写真の夢だった。そこで一九二五年に「ロスト・ワールド」という大トリックの恐竜と人間の闘う映画を作ったのがサイレント時代。(P252)」

 「恐竜ガーティ」で検索すると、youtubeでみることができる。
W・ディズニー アニメーション史 『恐竜ガーティ(W・マッケイ/1914年)』

www.youtube.com


The Lost World (1925) [Silent Movie]

www.youtube.com

 

 海外の映画を優先してみていたから、日本映画は好きではないという。のちに溝口健二黒澤明を見て、評価するようになった。でも日本映画には文句がある。

「映画というのはしゃべる芸術だから日本は大体が下手なの。しゃべらないでうまいのは小津安二郎ぐらい。ただ、映画はしゃべらないとね。でも悲しいことに日本人は自分たちの言葉を持っていない。だから逆に変に説明しちゃい過ぎる。(P283)」

 日本人がナレーションで「説明しすぎる」(かわりにしゃべりが控えめ)というのは、日本の小説でもそう思うので、淀長さんの指摘は当を得ている。

「夏目激石は哲学やからな。説明でしゃべるからね」(P305)

は、本書を読むのにあわせて漱石の読み直しをしている(「虞美人草」を読んでいる)ので、まさにその通りと思った。
 時には勇み足をすることもある。 

「ゼッフィレッリ(略)のオペラ映画がただ単にクラシック音楽、その名曲の教科書然とすましておらぬところが、また私たちには嬉しいのでありますなあ。(P239)」 

 これは異議あり。ゼッフィレッリのオペラ映画は舞台演出をそのまま再現しているので、自分には映画的な興味は薄いと思う。むしろジーバーベルクの「パルジファル」が映画的な演出に徹していて自分には好ましい(のだが、オペラファンからは総すかん)。

 最後は「日曜映画劇場」の解説者になったいきさつといかに映画を褒めるかについてのインタヴュー。これらの話も興味深いが、後半になるとノッてきた淀長さんは昔の映画のストーリーを語りだす。とても微笑ましい。

 

(ようやく気付いたのだが俺は映像からストーリーを把握することが極めて苦手。たぶん顔を覚えられないので人の連続性がわからず、セリフを記憶しないのだ。淀長さんのように、映画を見た後にシーンを並べ、演技を語り、セリフを繰り返すことができない。一度テキスト化したサマリーを作らないと、映画のストーリーがわからない。なので、淀長さんの語りはすごいなあというしかない。)