odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

黒岩涙香「死美人」(旺文社文庫)-3 息子の処刑に老探偵は間に合うか・・・。1891年の日本人は現在と大差ない文章で会話していた。

2022/04/29 黒岩涙香「死美人」(旺文社文庫)-1 1891年
2022/04/28 黒岩涙香「死美人」(旺文社文庫)-2 1891年


 入手が極めて困難。若い読者には難読。すでに100年以上前の出版。なのでほぼすべてのストーリーを記しておく。でも、細部にある風俗、習慣、服装などを端折っているので、19世紀後半のパリという雰囲気はなかなか想像しがたいかも。
 この時代の日本は言文一致体の誕生直前。なので地の文は文語体。会話は現在のものと大差ない(21世紀には時代劇特有のもったいぶった文体だが)。すでに日本人は現在と大差ない文章で会話していたわけだ。一方で、記述や報告は文語体を使う。それが10年かそこらの言文一致運動で、日本語の文体が大きく変わる。ここらへんは柄谷行人「日本近代文学の起源」を片手に深堀りするとおもしろそう。

 隠れ家には汽車か馬車で行くからそれほど遠方ではなかろう、と推測をたてて、零骨先生と稗田は停車駅周辺を片端から探ることにする。ある人の少ない田舎で水車小屋を発見。居酒屋で聞き込みをすると酒におぼれた老人、もとはなんと被害者柳田伝蔵と共同経営をしていたという。柳田に最後にあったというこの老人、犯人は零骨と断言していたのを証言する。管理人夫婦はすぐに追い出そうとし、はりこむと英国人がしきりに往来していると聞きだす。そこで稗田が商人のふりをして一夜の宿を借りると、毒が仕込まれていて、水車小屋の地下室に閉じ込められる。地下室には、珠子がいて、夜には照子もつれこまれる。ついに大佐の係累を一気に消すつもりか、地下室に川の水が注がれる。稗田は珠子、照子を連れていかに脱出するか。
 一方、パリに戻った零骨、類二郎の死刑が数日後に執行されると聞き、犯人もしくは証人の唖聾の身柄を確保しなければならないと思い詰める。類二郎の死刑執行は明日朝という絶体絶命のなか、再び水車小屋に行くと、近くに唖聾を見つけるも逃げ出され、鳥羽・阿部夫人・水車小屋の管理人夫婦の悪党も高跳びする準備をする際中、不意の火事で水車小屋が全焼し彼らが焼死するのを見届けるしかない・・・

 

 86回から129回(大団円)まで。類二郎の裁判が結審したあと、零骨先生と稗田の事件振り返りにより、早い時期で犯人が判明してしまう。なので、そのあとはいかに追い詰めるかというサスペンスに興味が移る。まあ早すぎた倒叙推理小説(最初は20世紀初頭のフリーマンで、そのあとクロフツやアイルズが書いた、という文学史でいいのかな)。犯人はとくに犯行を隠しているわけではないので、20世紀の倒叙推理小説のよな完全犯罪を崩すという合理思考・論理主義は見受けられない。それより、この国の2時間TVドラマのように、犯人を明かしておかないと読者がついてこれないと危惧したものであろう。それでも、物語のクライマックス前、ギロチン刑執行直前に類二郎が「鞠子は殺していないが、柳田を殺したのは私」という陳述がもう一度覆されるというドンデン返しが待っている。たぶんボアゴベの創意というより、ゴシック・ロマンスの定石だったと推測。そういう点では探偵小説がこれらのトリックや形式を生み出したのではない。ゴシック・ロマンスや新聞連載の家庭小説、雑誌連載のロマンスなどにあったものを取捨選択して取り込んでできたのだ。まあ小説のサブジャンルというのはそういう境界領域でアマルガムになっているのを形式化したところから生まれるものだ(SFがよい例)。
 これまで読んできた探偵小説史ではガボリオ、ボアゴベの評価は低い。いわく名探偵がいない、意外性に欠ける、トリックがない、形式化が不十分、などなど。再読しての感想は、そうかもしれないけど、ハードボイルドの前駆、倒叙推理小説の前駆などこの後に開拓された方法がずいぶんたくさん詰まっていて、可能性に満ちた小説ではないか。これを継承してより純化したドイルの初期長編「緋色の研究」「四人の署名」よりも物語の分断が少ないのが好ましい。水が流れ込む地下室からの脱出、容疑者の犯行陳述がのちに覆されるというのは、この後の探偵小説、冒険小説でなんども繰り返された(ボアゴベが創始者かどうかは不明)。このような発見がたくさんあった。
 探偵小説史では、エドガー・A・ポーディケンズのあとはドイルになって、ガボリオ、ボアゴベはほぼ無視される。それはたぶんに形式を純化した謎解き、犯人あて探偵小説を評価軸においた見方。トリックがほぼでつくし、意外な犯人で驚くこともなくなったモダンなディテクティブストーリーは、冒険小説やロマンス等の味付けをして、むしろガボリオやボアゴベの路線に回帰しているのではないか。
 とはいえ、19世紀後半の小説は、冗長である、ご都合主義が目立つ(類二郎とお鞠が懇意だったとか、珠子と照子が従姉であるとか、聞き込みの最初で柳田伝蔵の元共同経営者に遭遇するとか、稗田の張り込みで倉場をすぐに見つけるとか)、悲劇の中心たる類二郎に魅力がかける、19世紀の人々の感情は21世紀には違和感があるその他の欠点が目に付く。1878年原作を1891年に翻案したものだから仕方ない。

 

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 以下はネットで検索して獲得した情報。すごい人がいるものだ。テキストクリティークではなんとこんなことも!

涙香『死美人』は明治24-25年に「都新聞」に連載されたが、これが単行本化される際に一回分の脱落があった。この脱落はその後の刊本でも埋められることなく踏襲され、乱歩の現代語訳(昭和31年)もこの部分が脱落している。
https://twitter.com/fujiwara_ed/status/1067995582982053888

 

 2018年の河出書房新社版(乱歩現代語訳)では脱落した回が復元してあるとのこと。

www.kawade.co.jp

 

黒岩涙香「死美人」は、連載前の「序」があって、これも単行本未収録。本当はこっちも載せた方が資料的な価値は増すのだが、ちょっとこっちまで手がまわらない。完本「死美人」涙香原典刊行を期待したい
https://twitter.com/komorikentarou/status/1054754208509964288

 

 旺文社文庫の解説(氷川瓏)が緒言の一部を引用していた。

「涙香の翻案活動は前述のように、明治二十一年発表の「法廷の美人」から始まり、大正の初め頃までに八十編に近い長編を残している。この期間中、前期と呼ぶべき明治二十六年頃までに書かれた三十数編はほとんど全部探偵小説で、それも無実の者が裁かれるという法廷小説が多い。これは彼がこの頃裁判の不備不公正に強い関心を抱き、その是正のために社会の注意を喚起するという目的をもって執筆したからである。それ故探偵小説といっても、推理を主眼とする今日のいわゆる本格物ではなく、社会悪を告発する社会派推理小説の源流とも見るべき作品が多い。」
「最近涙香研究家の伊藤秀雄氏によって新たに発見された「死美人」の緒言でも、冒頭において、『余が此度訳述する「死美人」はボアスゴへ先生の傑作の一にして有名なる疑獄談なり』と述べて、読者に期待を抱かせている。この緒言でも彼は『罪あって法網を潜る者実に悪むべしと雖ども、罪なくして疑似の証拠の為に冤に伏する者亦誠に憐むべし、余や…(略)…無辜の人を憐むの情殊に切なり、此種の小説を訳する以(ゆえ)なしとせざるなり』と執筆の動機をはっきりと宣言している。」

 

『死美人』の解説で指摘しそこねましたが、原書では死んだと思われて実は死んでいなかった令嬢についての記述がフェアに書かれていて一種の叙述トリックの働きをしているところがあるのですが、涙香翻案『死美人』だと「死体」と書いてしまっていて、原著のフェアな書き方が損なわれています。
https://twitter.com/komorikentarou/status/1087679161466945536

 

『死美人』に寄せた私の解説では、たぶん日本で初めて、ボアゴベの生み出した名探偵ピードゥーシを論じています。『死美人』で零骨の助手(涙香翻案で稗田の名)をつとめ、快楽亭ブラック翻案『車中の毒針』の原作『乗合馬車の秘密』と明治に翻案のある『探偵眼』では主役探偵をつとめています。(続
https://twitter.com/komorikentarou/status/1067242209576017920
承前)可能ならピードゥーシ全事件リストを作成したかったのですが、ボアゴベの著作には入手できないものが少なからずあって、ピードゥーシが登場しているかどうか現物みないとわからないのが数作あるので、リスト作成まではできませんでした。
https://twitter.com/komorikentarou/status/1067242500316786688