久々の読み直しは、青空文庫に入っている堺利彦・幸徳秋水訳。あいにくいつの翻訳かはわからないが、玉岡敦「『共産党宣言』邦訳史における幸徳秋水/堺利彦訳(1904,1906年)の位置」を参考にすると、1930年の翻訳だろう。
http://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/603-02.pdf
ちなみに、岩波文庫の大内兵衛訳は1951年。不思議なことに、古い堺訳のほうが読みやすく、わかりやすい。もともとマルクスの文章は韜晦と脱線と実験的な文体で、引用の多い謎めいた印象をもつもの。大内などの共産党員はできるだけ忠実に訳すようにしたと思うが、一方社会主義者の堺はわかりやすい文体に移し替える。堺訳では、マルクスを「私たちを狂おしい思いにさせる人びと、狂気に憑かれた人々の一人」(フランシス・ウィーン「今こそ『資本論』」ポプラ新書)に思わせるような熱はない。秘教的・秘密結社的な装いはない。彼のいいたいことを把握するには堺訳のほうがよい。ただしいくつかの訳語は古いので、既訳か参考書と突き合わせておいたほうが良い。そこまでする必要はあるか、はなはだ疑問ではあるが。
「共産党宣言」がでたのは革命の起きた1848年。産業革命はイギリス一国を超えて西洋世界に波及している。いくつかの資本は国境を越えつつあったが、多くはまだ国内市場を相手にするもの。一族経営がほとんどで、株式会社はまだ少数。国家は古典経済学のやり方をとり、すなわち自由放任(レッセ・フォール)。企業は科学技術に関心を寄せていたが、国家でそこまでの必要を感じているところはない。労働者は増加していても、まだ農業従事者のほうが圧倒的に多い。すなわち資本主義の黎明期であり、国境を超える資本が国家を凌駕し運営するようになる帝国主義はまだ生まれていないということだ。これはモデルにしたイギリスの状況で他の国はそこまで進捗していない。政治体制はフランスをモデルにしているが、多くの国は君主制で議会も開かれていても多くの人は参政権を持たない(女性や移民にはない)。そこから政治と経済のありかたが随分と変化した20世紀以降には、このマニフェストは見直しと書き換えが必要になるだろう。
素人であるが気づいたところを指摘すると、
第1章の史的唯物論はとても観念的。マルクスが書いた「経済学・哲学草稿」だと、多くの用語(「私有財産」「ブルジョア」「プロレタリア」など)は観念であって実在するものではないのだが、このマニフェストではリアルと観念がごっちゃになっている。資本も同族経営が想定されているが、このあと増えた株式会社を無視している(株式会社では資本家と労働者の区別があいまいになる)。なので、ブルジョアとプロレタリアの二大階級に分裂し(民衆のほとんどを占める農民、市民層にある小売商店など無視)、闘争が行われるというのはイデオロギーであって、歴史的にあったこととは言えない。すでにエンゲルスが「イギリスにおける労働階級の状態」で報告しているように、組合が労働環境や賃金の改善などを求めて闘争するとき、資本が受け入れるとそこで闘争は終わる。ときには政府が労働者の要求を入れた政策をすることもある。ブルジョアは決して非妥協的ではなく、資本の存続のために労働者の要求を入れていく。このマニフェストでは永久的な闘争状態が続くとされるが、それは著者らの願望でしょう。
資本の拡大が国家や民族の枠組みを超えるという指摘はあるが、マルクスはその重要性をみない(50年後にレーニンがみることになる)。歴史の運動を階級闘争としたことで、国家と民族の問題がすっぽりと抜け落ちた。プロレタリアは国籍を持たないといってインターナショナルな存在であると規定したが、実際は国籍がないと賃労働につけないし、民族のくくりは言語と生活様式などの同質性があるので揚期することはできない。19世紀には労働者は政治参加から締め出されて、上流階級やブルジョアとは異なる社会を形成していたことの反映なのだろう。実際には、このあとの帝国主義戦争において、レイシズムと排外主義の勃興において、労働者や大衆、民衆は容易にナショナリズムを持ったのだった。その結果、20世紀の社会主義・共産主義国家では同化主義が実行され、まれにみる民族浄化・ジェノサイドが行われたのだった。
第2章の共産主義も同様。「私有財産の廃棄」がうたわれるが、この言葉はとても微妙。よく読めば、「私有財産」は労働者を搾取して得たものであって、賃労働で蓄えたものや購入したものは含まない。でも日常言語では私的所有全般の廃止、ここには書かれていないコミューンか組合の共同財産のように読んでしまう(私有財産の廃棄を後押しするのが「相続権の廃止」。別の話題になるけど、ベーシックインカムは相続権の廃止といっしょでないとうまくいかないと思う。そうでないと、人の格差が温存されて個人所有の差異が広がるから。それがないようにするには、相続権を廃止して死者の財産は全部処分して再配分する仕組みになっていないといけない。ただこれをやると個人所有の文化財が散逸するので、どうするかは問題)。
賃労働を廃止すれば、労働者の搾取がなくなるという。ここもうーんとうなってしまうのは、ベースになっている労働価値説は成立しているのかという疑問。賃金はマルクスのいうような搾取分を取り除いて決められるかというとそうではなく、実際の経営では同業者や周辺企業の相場との関係で決めるというとてもあいまいなものだから。
女性や子供の搾取を労働と家事からなくそうというビジョンはとても納得するのだが、それは家族制の廃止で達成できることかしら。このマニフェストでは集団生活や育児を想定しているようだが、マジョリティの男もいっしょに運営すると父権主義とミソジニーは温存される。20世紀の日本の「革命党(ことに新左翼)」内部での女性差別はひどかった。
マルクスはその後の著作でも共産主義がどのような社会であるかを明示することはなかった。それに至る道筋はブルジョアに対するプロレタリアの闘争にあると見たわけだが、このマニフェストを読むと、賃金労働に携わる労働者がそのままプロレタリアに一致するわけではない。普段の闘争や非妥協性が求められている。自分の妄想では、レーニンがなれにいった「革命家」が「プロレタリア」の意味なのだと思う。私有財産、賃労働、家族などを廃棄して純粋なプロレタリアになることが闘争参加の条件になるのだろう。
このマニフェストが書かれた時代は、資本は国家の領域内を市場にしていた。資本の自己増殖の力はまだ国家を超えるまで成長していなかった(なのでリストの国家経済学が成立可能)。しかし資本の力が大きくなると、国家の枠はじゃまになり、資本は世界に市場を求める。資本と労働力が流動化して、民族国家の基盤を揺り動かす。マルクスは、レイシズムや排外主義は資本のグローバル化・大衆社会化・画一化で消滅するといっているが、実際はそうならない。民族主義が台頭し、一層民族国家を強力にしようとする。国家の枠を超える資本の拡大と、民族主義の基盤の強化という矛盾した動きは20世紀の全体主義国家で止揚される。
第3章のほかの社会主義や共産主義の罵倒はどうでもいいや。倒すべき敵に対抗・抵抗しているとき、横にいるものを非難、罵倒して自分らのステイタスを上げるというのは、このあとの「左翼」の習慣になってしまった。それがときに運動を阻害したり、参加者を減らしたり、内紛で弱体化した運動がいっせいにつぶされたりする原因になった。19世紀半ばのこのころに根があったのだね。
このマニフェストを久しぶりに読んだ感想は、リアルと観念をごっちゃにしているなあ、哲学者の考えた机上のアイデアだなあ、ということ。個々のアイデアを詳しく検討すると、具体的ではないし、実現までのプログラムもあいまいだし。マルクスの考えは、「革命の経済学(ハンナ・アーレント)」であるとか、政治経済学であるとか言われていたのだが、その指摘は当たっていると思う。
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