odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

堀田善衛「橋上幻像」(集英社文庫)

 1970年の小説。いきなり単行本ででた。登場人物に固有名を持たせない、詩的イメージを喚起させる文章など作家の小説の中では異色な実験作。しかし、現実(1970年当時の)と歴史を強く意識しているのはこれまでの小説と同じ。

  

橋へ ・・・ イントロダクション。

「ありふれた街のありふれた風景のなかに架かる一つの橋。それは三つの方向から延び真中で交わる橋。上空から見ればY字型をした橋。その橋の上へと読者を誘う三つの物語。日本軍によるニューギニアに於ける人肉喰、ナチスによるユダヤ人虐殺、ヴェトナム戦線から脱走したアメリカ人の困惑。人間の存在と意識を極限の形にまで昇華させた名作。」

books.google.co.jp


第一部 彼らのあいだの屍 ・・・ 橋のまわりには国立がん研究所付属の病院とホテル(トランジット:通過、乗り継ぎの意)と産婦人科がある。男と女がホテルで食事をとり、寝て、橋の上に来る。戦中に大学生だった男と女はすでに中年を越えて、しかし二十数年前の戦争体験に深く呪縛されている。彼らの語りは静かで冷気に満ちていて、互いに愛とか恋とかの熱い感情を持つこともない。彼らはどこにも居場所が無いように感じていて、ホテルという場所とその名前は彼らの現在(1970年ころ)にふさわしい。途中、二人には四郎・安川みどりという名が与えられるが、徹頭徹尾「男」「女」と呼ばれるのがふさわしい抽象的な存在になっている。
(彼らは15年前に自殺した「彼」の知り合い(男は大学の同級生、女は元婚約者)。彼の一度だけの告白を男が女に聞かす。それが上のサマリーにあるもの。日本軍の汚点というような残虐行為の暴露。それは大岡昌平「野火」や武田泰淳ひかりごけ」などで知られていたもの。ここでも飢餓や米軍攻撃が語られるが、妙に空虚な話に聞こえるのは、伝聞の伝聞のせいか。青白色のヒルやトカゲなどの観察も文学の修辞のように白々しく、それこそ「野火」「ひかりごけ」のような切迫感も緊張感もない。)

第二部 それが鳥類だとすれば ・・・ 男は東欧のどこかで東洋人(中国国籍を持って戦争中に大陸を移動し国籍を変えた)の葬儀に立ち会う。そのあと、男が示唆したアイデアで作った映画を現地の通訳の女性とみる。途中からある少女のストーリーに。ナチに占領された街でユダヤ人狩りがあり、偶然で生き延びた。
(映画の上映中に通訳が体を震わせ涙や汗をだすところから、彼女自身の、しかし自分の体験とは決定的に異なる映像の主人公であることがわかる。ここでは迫真性や強迫性が増す。映像を言語化することや、現地で当事者といっしょにみていることが感情喚起のちからになっている。通訳の女性は言う。

「あなた(男=日本人)は多分、国家の敗北というものは、日本の方として御存知でしょう。けれど湖も、自分の住んでいる町を、味方の軍隊がどしどし通過して行って、通過して行くだけで、次から次へと後方へと退却して行き、住民たちだけがとりのこされるという、そういうふうな敗戦というものは御存知ないでしょう(略)いまの、あの女たちの叫び声は、町を通過して退却して行く兵士たちに、なぜ自分たちを放ったらかして行ってしまうのか、と問いかけていたのです。詰問をしていたのです。それに対して兵士たちは、命令だ、仕方がない、と言っていたのです」(P175-176)

 この指摘は重いのだが、実はまさに同じことが満州と朝鮮、沖縄、樺太の日本人に起きていたのだった。そこに思いたるために、東欧人の戦争体験を聞かないと気付かない日本人のぼんくらさ。教えていないし、調べないとなかなかわからないことなのだ。)

第三部 名を削る青年 ・・・ 男は自宅にベトナム帰りのアメリカ軍脱走兵をかくまうことにした。1945年に朝鮮で生まれた青年は朝鮮戦争で孤児になり、アメリカ人家庭に引き取られる。ティーンエイジで家出をして20歳ころに徴兵でドイツから韓国に派遣された。ベトナム行きを志願し、休暇中に脱走する。北欧諸国にいっていずれ中華料理の店を持とうと考える。(どの国にも所属できないし、所属したくない。国と国の間、民族と民族の間にいる。なので、朝鮮名もアメリカ名も拒否する。となると自分で自分に名前を付けなければならない。それは国が受け入れるだろうか。アイデンティティと名前。黒人公民権運動のメンバーが自分で自分に名前を付けたことと対比する。キング牧師マルコムXら。)

報告 ・・・ Y字型の橋の結節点でおきた三つの幻像。無数の死者。橋の周辺の景色はかわり、屍を客とした宇宙船が旋回彷徨している。

 1970年を振り返れば歴史の転換点だった。大阪万博を機に、社会やマスコミから戦争の歴史を思わせるものが一層された。たとえば傷痍兵であり、メディアの番組であり、さまざまな出版物であり、マイノリティの存在である。ときにジャングルに隠れていた日本兵が帰還するときに戦争の記憶が呼び起こされたが、あくまでサバイバルの方法だけであり、上官命令の桎梏の強さであった。彼ら兵士が戦場や占領地で行ったことは隠された。他国にない戦争の記憶の廃棄であった。
 それでも、現在は歴史が重なっていて、ときに歴史が露出する。死者を思い出すことによって。生者と死者は交差するときに、歴史が噴出する。そのきっかけは性行為や酒であったり、映画であったり、思わぬ闖入者であったり。思い出すことで現在が歴史に制約されていて、未来も歴史の制約の中で描かなければならない(忘却や廃棄で刹那に生きようとすると、糾弾されたり、拒絶や冷笑を受けたりする)。
 この3編にでてくる現在と歴史を生きる人に共通するのは、国から拒絶されたマイノリティであること。すなわちニューギニア日本兵は日本によって棄民されたのであり(国に入るためには辺境での国家を毀損する出来事を封印しなければなrない)、東欧ユダヤ人はナチスによって民族浄化(ジェノサイド)されたのであり、脱走兵は複数のルーツの中でどの国籍と民族を選べないようにされたのである。国家に拒否され、複数の国家の間に生きる人には、現在は歴史といやおうなくつながっている。国家のインサイダーにいるものには、歴史は掘り起こさないと見えない。なので、国家の間に生きる人と会うことによって、歴史を直視させられるのだ。それは苦しいことである(なので男は国家の間に生きる人の前で絶句し、苦渋を感じ、自分もおかしくなってしまう)。
 この小説の読者の大半は国家のインサイダーにいて歴史を見る機会は得難い。そこで出会ってしまった男と作家のレポートはY字型の橋の上で見る幻像を写し取って、読者に届ける貴重な機会なのである。それにしても、戦後すぐにはよく見えていた歴史がたった25年でこれほど見えずらくなっていたとは。

解説――あなた=あなたの名前は何か(小田実) ・・・ Y字型の橋の上を歩いていると、他者とすれ違ったり、であったりするのだが、ときにどんずまりの向こう側に行ってしまうことがある。一度向こう側に抜けると人間であることができなくなってしまう。どんずまりの向こう側から戻ることはきわめて困難。小説に出てくる人たちは、向こう側に行ってしまった人たち。彼らとわれわれの違いはなにか。たんに時や場所や運の違いか。重要なのは、国家の命令や国家に逆らうことの結果として向こう側にいってしまうこと。国家の都合でかってに向こう側に行かされ、人間であることをできなくさせられてしまう。そういう行為としての人肉食、ジェノサイド、国籍剥奪。
(向こう側に行かされ人間であることをできなくさせられる象徴が名無しになる/であること。名前を持つのは共同体の承認を得て、成員になることだが、向こう側に行くと名無しnamelessになってしまう。小説の語り手が「男」と書かれるのは、どんずまりの向こう側に行ったものと交通(@柄谷行人)したことによって、存在根拠を疑うようになった証といえる。)

 堀田善衛の作品を振り返れば、多くがどんずまりの向こう側に行った人たちとの交通を考えるものだった。ことに、「歴史」「時間」「審判」など。あるいは「男」と同様な経緯でどんずまりの向こう側に行った名無し(仮の名をたくさん持つ)になりそうな人たちとの交通であった。「スフィンクス」「若き日の詩人たちの肖像」。作家の仕事は一貫していたのだった。

 

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