odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

堀田善衛「時間」(新潮文庫)

 1937年南京。秋から不穏な空気が漂い、難民流民が流れ込んでくる。その後を追って日本軍が南京「入場」。すでに国民党軍は指導者ともに漢口にのがれ、置き去りの兵士と難民、市民を守るものは誰もいない。飢えた日本軍兵士は大虐殺とレイプを繰り返す。 

 語り手は海外留学の経験もあるような中国のインテリ。過去に海軍部で仕事をしていて、司法官をしている兄に家と家財を守るように命令され、南京に残る。日本軍の襲来によって家にいられなく路をさまよううちに家族と離れ離れになり、半年たって消息が分かったのは妻は死亡し、5歳の息子は飢えているところを日本軍に射殺され、姪はレイプされ梅毒にかかりヘロイン中毒になっていた。本人も川岸で集団が射撃をうけたとき、失神して危うく難を逃れたのである。家は日本軍に接収されて、諜報担当の大尉が住むことになり、その奴僕となった。そこには、地下室に隠した無電機で様々な情報を送る地下工作者になることを任務としたから。
 とはいえ、中国の統治機能が失われた地域にいるとき(外部からの支援も受けられないとき:日中戦争英米は加担していない。中国共産党ソ連共産党の顧問を追放)、地下工作はきわめて静かにおこすしかなく、はた目には何もしていないかにみえる。日本軍のインテリ仕官の冷笑や国民政府に取り入ろうとする叔父の嘲りに、黙っているしかない。それは圧倒的な力の差があり(かつ国際世論の非難を無視した日本軍の厚顔無恥も)、銃器を取ってのレジスタンスの可能性がないからでもある。しかし、彼は

「事実を認めるのは既成事実をより一層固めることではない(P145)」

とも考える。「沈黙は一つの言葉である。黙ることは語ること」であると考える。たとえばそれは日本軍の非道(路上でのレイプ)を目撃しつつ、畝を耕す農夫らの沈黙である。そこにある怒り、悲しみ、その他の感情の塊が沈黙しつつ農作業にふける(ふりをする)行為に現れる(自分の無知を晒すが、ベトナム戦争でもアメリカ軍の銃撃のわきでベトナムの納付は田の手入れをやっていた。俺はそれをベトナム人の愚鈍さと受け取っていた。そうではなく、さまざまな感情を込めた抵抗の仕方であったのだった。まことに俺は無知だった。)
 彼の観察からすると、

日本兵は顔を殴るのが好きだが(略)、粗暴な所以は、彼等が兵としての正当な名誉心や持ち前の勇気を正当に評価されず、二六時中組織的に侮辱されているところから来る(P76)」

と喝破し、家を接収したインテリ仕官(もとは大学教授であるらしい)は卑屈と尊大にあるが、英語独語の書籍を一つとして読み通していないと底の浅さまで見透かす。彼のまなざしのいかに遠くまで見通したことか。そして日本軍の乱暴狼藉は「自国の時間に他の国の異質な時間が侵入衝突してくる」と思えるのである(タイトルの由縁)。この侵入した時間を排除し、元の自国の時間に戻すことは小説の枠の中ではできない。なるほど1945年夏に日本軍は武装解除したが、虐殺・レイプに対する責任を取らず反省することなく日本に帰国してしまったのだ(それに国民党と共産党の内戦はさらに続いた)。
 このようなインテリが乱世にあってどう対応するか、どのように正気をたもつかが主に後半の主題。その内容の切実さと問題の重さはヴェルコール「海の沈黙」よりも大きく、安易に死ぬことができない事態はマルロー「人間の条件」よりも厳しいものであるかもしれない。虐殺・レイプの後に南京に住むことは、ほとんどアウシュヴィッツの収容所にあることと同じにみえる。語り手や被害者の心理は、フランケル「夜と霧」で分析された内容に重なるであろう。
 というのも、難民が流れてくることから始まる大陸の戦争は、日本軍の極悪非道によって情景・惨となるからだ。ここに記述されたさまざまな虐殺・レイプには目を覆いたくなるほど。日本軍が語り手の家を接収すると美術品である壺を庭に投げ捨てて破壊し、居住する部屋で脱糞する。日本の軍隊は敵国の文化や人々を徹底的に侮蔑し、敬意を払わなかった(フランスを占領したナチスよりも悪質)。そして南京虐殺をして知られる戦争犯罪の数々。レイプを逃れるために、女性は顔に人糞を股間に鶏糞を塗る。しかし日本兵は女性を川に突き落として、それらを流してからレイプに及ぶ。身を守るために自らを汚した女性は日本軍が占領する前まで、普通の生活をして、恐怖を知ることはなかった。日本軍と兵士は中国の人々を蹂躙した。
 中国の人々は、殺、掠、姦、火、飢荒、凍寒、創痍(創にはヤマイダレがつく)と簡略に、的確に表現した。この事実を知らなかったのは日本本土に住むものだけであった(軍部は知って参謀を派遣したほどだし、昭和天皇にも伝えられていた)。組織的な隠ぺいが行われ、日本に住むものは東京裁判によってようやく知ったのである。その衝撃の反映がここに結実している。しかし、この虐殺・レイプを芸術に表現する試みは本書以外に行われず、70年たってほぼ忘却している。この忘れっぽさと軽薄さ(日本人は虐殺・レイプの最中にも軽薄で剽軽であった)にも衝撃をうける。  堀田善衛は個人の自我の確立とか内面の葛藤にあまり拘泥しないで、むしろそっけなくす通りして、何をどう考えたかを書く。その考えが未熟であったり、四散してまとまりのないものであったりしても、そのまま書く。歴史を思い出し、社会のさまざまな階層の人々を描く。こういうやり方は、1950年代には不評であったらしいが、21世紀に読むとそれは長所だ。ある程度の一貫性があって、局面ごとに反応を変えるのが人間だから。こういう書き方は70年代の「ゴヤ」からかと思っていたが、すでにこの時期からあったのだった。おみそれしていました。若い時の俺の読みは浅かった。この1955年初出、作家37歳の作品をまだ十分に読み取れていない(初出年は1957年、1959年とも)。

<参考エントリー。 2012/04/27 横光利一「上海」(岩波文庫)  読み比べると、横光のはいかに皮相的・能天気だったかがわかる。

 

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