タイトルの「記念碑」とは何を象徴しているのか。本書には昭和20年1月から8月末までの日本の敗戦の様子が書かれている。歴史書では政権に近い者たちの動静が書かれ、ドキュメンタリーでは庶民や兵隊らが取り上げられる。ここでは、新橋の通信社に勤務している者たちに焦点を当てる。彼らはインテリで、仕事柄対戦国や海外の戦地の情報も入ってくる。なので、敗色濃厚な状況から和平工作にいたるまでの政治と外交の裏側を知ることができた。とはいえ、政治の判断に関与することはできないし、情報通であるということだけで特高が目をつけることになる。登場人物の数人は特高に監視され、訪問され、ときに訊問をうける。すでに開戦時の高揚は周辺から消え、そのうえ庶民と同じように物資不足に苦しむ。彼らはインテリとして語る言葉を持っている(庶民は皇民教育のために民主主義や自由主義の語彙を知らない。日本主義と称するカルト思想の語彙しかもっていない)。彼らは語ることができるが、周囲がそれをさせない。したがって、会話や書き物は自分らの周囲の問題に限られ、あるいは歴史や古典に向かう。まあ、現実に向き合えるものが向き合えず、インテリの役目をはたしていない。そのあたりの「苦痛」が書かれる。
ストーリーの中心にいるのは、石射康子という45歳の独身女性。夫の外交官は勤務地から帰還途中に自殺。息子は特攻隊員でいまは行方知れず。息子の妻は身重で結核。康子は深田老人という枢密顧問官の秘書をやっていて、その縁で通信社の伊沢信彦と親しい。アメリカ人の妻を置いて帰国した記者。兄はガダルカナルの生存者でブーゲンヴィル島に置き去り。弟はコミュニストで最近出獄したばかり。深田老人は自由経済派で現政権には批判的。なので彼らの周辺を井田という特高刑事が嗅ぎまわる(沖縄出身者で老母が沖縄戦に巻き込まれた)。
康子は1月に日比谷公会堂で第九を聞き、3月と5月の東京大空襲に会い、ドイツ降伏後の戦犯裁判の様子を調べ、和平交渉の進捗を知る。そして8月15日の玉音放送を聞く。康子の感想。
拡声器から出て来る声は、切実なところの少しもない、奇妙に間伸びのしたものだった。(P254-255)
「終戦」の日はいつかという問いがある(佐藤卓己「八月十五日の神話」(ちくま新書)、佐藤卓己/孫安石 「東アジアの終戦記念日―敗北と勝利のあいだ」ちくま新書など)。法や外交や政治とは別に、8/15がその日になった(1963の記念式典以降)のを認めたのは、玉音放送体験が強烈だったせいだと納得した。戦前の統治体制の否定を施政者自らが行ったのだから。そういう点では、この国の変革はテロ(かクーデター)でしか起こらなかった。
井田は昭和20年に労働争議や小作争議が全国で何千件も起きたという。しかし争議は連携することがなく、個別に静められる。他人のやっていることに冷淡で無関心。というのも、
「事実は受け入れるよりほかないことになった(P10)」
「それまでにはどうにかなるだろう(P88)」
「日本人ていうのは実に死ぬことばかり考えて来た(P219)」
「執拗な努力を中途で放棄する、あるいは放棄せざるをえなくなる(P220)」
「世間ばかりがあって、倫理がない、人間がいない(P227)」
というのが日本人だからか。
まことにこの小説は、凡庸などこにでもいる人々を描くことによって、これらの認識に至ることをめざす。でもこれらの認識は人々が共有することはないし、何かで連帯するような行動にもいたらない。それを含めて日本人なのだろう。
さらに追加すると、彼らの見聞きする日本人もまた醜悪であった。3月の東京大空襲で焼きだされた人だ布団で寝ているとはがされて盗まれ、ある一角に糞便をする。飯を炊いていると飯盒ごと盗まれる。一人でいる娘には痴漢や窃盗をすぐにしかける。土浦で特攻の訓練をしている下士官は割烹で悪酔いしたあげく、割烹に乱暴狼藉を働く(什器を破壊し、墨で殴り書きし、畳を投げ捨て、真剣で居合抜きをし、憲兵が上等兵であれば愚弄する)。敗戦が決まると、退役した海軍佐官はアメリカとの貿易会社に就職する。そういう破廉恥、無節操が日本人の「本質」であるのか。異常事態、極限状況においてホッブスの「狼」になるのが日本人であるのか。それを書き付けた本書自体が「記念碑」であるともいえる。
もう一つ重要な視点があった。うえにあるような日本人の「本質」ともいえる素行をするのは男ばかり。彼らは軽挙妄動し無反省で付和雷同になる(典型的なのは特攻兵士に選ばれながら命令不服従で帰隊させられた康子の息子。徹底抗戦のビラをまいたあと除隊して家に帰り、康子になじられると姿を消す)。男の不始末をするのが女。あるいは特高などの嫌がらせや拷問にも耐えきれる。
「自前で、持ち出しで戦って来たものと、官費で、官製のものの上にのっかって戦って来たものとの、人間としての差異がこれから大きくひらいてゆくのだ(P265-266)」
1955年作。初読(1982年)のときはあったかもしれないが今は乗り越えた昔の物語だったのに、再読(2019年)にはわれわれの現在とこれからを予言しているようなリアリティある物語になった。もういちど、このような事態を経験することになるのかもしれない。そうならないように、日本人の「本質」とは逆の、否定するようなアクションが必要。小説の内容が恐ろしく、読後の物理現実が恐ろしく感じられる。
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