odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

中西準子「水の環境戦略」(岩波新書) 水道システム全体のリスク管理を提案。リスクゼロは不可能で、別のリスクを生み出す。

 長年、下水道研究に携わり、行政や学界から攻撃され研究費を削られてきた研究者が日本の水行政システムのおかしさを暴く。これまで著者は下水処理場を分散し、河川に戻して繰り返し使うことを主張してきた(しかし行政と学会は都市の大規模処理場にこだわり、下水道の設置を遅らせてきた)。90年代に環境破壊物質の危険が発見されたので(農薬、トリハロメタンダイオキシンなど)、それらが混入する水道システム全体のリスク管理を提案する。
 本書は1994年の出版。この後著者は、本書で提案した「リスク管理」を具体化する研究を開始し、数十種類の化合物のリスク表を作成した。このあたりは著者のブログで進捗を報告していたと思う。学会で賞をもらうような成果がでて、他国の政策に取り入れられたと聞くが、この国の行政には影響していないと思う。

序章 水循環とは何か ・・・ 人類が利用できる水は地球全体の水の1万分の1。これを「持続可能な発展(1992年リオ地球サミットで提唱)」しなければならない。生活と生産のために水を供給しつつ、かつ政体家を破壊しない。地域環境と地球環境は異なる。問題の在り方も先進国と途上国では異なる。

第1章 世界と日本の水事情 ・・・ 世界的には水資源の不足がおこる。都市部への人口集中、小さな水循環システムの破壊、水源の汚染などが原因。一方、日本の事情は異なり、水資源は十分であるのに、毎夏渇水が起こる。それは古い時に決められた農業用水と工業用水の水利権が継承されていて、産業構造が変わったのに遵守され、浪費されているため。制度と仕組みの改善が必要。

第2章 排水による水質汚濁 ・・・ 長らく共同処理場が使われてきたが、処理効率が悪い・排水を循環できない・経済効率も悪いので止めるべき。人口密度や排水の規模に応じて生活排水処理は個人や集落での処理にしたほうがよい。また工業排水ではエンドパイプの処理は効率が悪く、途中工程での処理や循環を採用しほうがよい。パルプ業では古紙を使うリサイクルを取り入れることで、水の使用量を劇的に減らした。そのような技術開発も必要。とはいえ、日本の行政と産業界は水の使い捨てを進めてきた。
(ここは1980年ころの中西準子「下水道」(朝日新聞社)の主張と同じ。水循環を達成するには、一度使った水を河川に戻し再利用する仕組みは最も有効である。)

第3章 新しい水道水質基準の見方 ・・・ 水道水の水質基準は、微生物被害、ウィルス被害、有機物混入にどう大書するかで決められてきた。そこで塩素消毒が最も有効とされてきた。1980年代に発がん物質や健康被害を与える化合物や重金属の汚染問題がでてきた。ことに塩素消毒によって危険物質が発声する。水道局の対処は隠蔽であったが、1993年に新しい水質基準がでた。著者らは基準が妥当かどうかを検証する調査を行う。

第4章 「リスク管理」の考え方 ・・・ 水質基準の考え方を変えなければならない。リスクゼロにすることは費用から不可能であり、ゼロにすることが別のリスクを誘発する。水や水道の問題は個人のリスクは小さく、日本人全体がリスクの影響を受ける(その点で、狭い地域で劇症化する公害問題とは異なる)。リスク―ベネフィット原則で提案する。個々の物質ごとのリスクを算出し、リスクを和することで総合リスクを想定し、費用と効果を計算する。そのうえで危険か否かを使用者が判断する(なのでリスク管理の議論は公開されなければならない)。一程度の危険(リスク)は受け入れなければならない(この考えは重要。ゼロリスクは実現不可能)。

(これまでは危険か否かは行政が決めてきて、新しいリスクに対して行政は常に「安全」といってきた。被害が発生しても行政は責任を取らない。使用者が文句をいわないと、隠蔽と無責任が横行し、健康と環境の悪化が促進される。宇井純と並んで、環境行政と御用学者から攻撃されてきた著者の卓見。

第5章 水環境ー人間だけ安全ならいいのか ・・・ これまでの行政は人間の健康被害をなくすことで動いてきたが、かわりに他の生物や生態系の危機には無関心だった。これは公害問題のイメージを引きずっているためだろう。今までは水源保全の考えで政策をかんがえていたが、これからは水環境法による政策が必要。
(21世紀には生態系への影響も懸念されるようになってきたが、希少生物とペットが主な対象で、家畜やよくある普通種のことはあまり考えられていないという印象がある。水源保全では極右や愛国主義者が「水源を外国人が買い占めている」*1というヘイトデマや扇動に使われている現状がある。)

 

 第4章の「リスク管理」で指摘されたことは、21世紀に東日本大震災原発事故で繰り返されている。行政は「安全」を繰り返し、隠蔽できなくなると無責任な放出になる。多くの市民はゼロリスクにこだわり、実現不可能な要求を繰り返す(時に市民運動の論理(「200年に一度の災害に行政は対処しろ」)を行政がすり替えて使う(「200年に一度の災害に対処できないので現状のままとする」)。そのために政策は変わらず、現場は放置され、責任をだれも取らない。あまりこの問題を調べていないが、とりあえずの見方。
 リスク-ベネフィット原則と議論の公開は重要なルール。「リスク管理」に限らず、他の問題でもこの方法は妥当であると思う。
(ただ、リスク-ベネフィットを数値化するトレードオフを強くすると、権力勾配が働いて弱者にリスクを押し付けることになりかねない。企業や行政は弱者をたたきがち。そうならないように担保するのが議論の公開であるが、同時に「正義」論を考慮することも必要になる。)
 以下は危険な功利主義的学問の例。
2016/07/01 竹内靖雄「経済倫理学のすすめ」(中公新書) 1989年
ハロルド・ウィンター「人でなしの経済理論」(バジリコ)
 正義の考え方は、このブログのサンデルやアーレントの記事を参照してください。

 

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*1:実際は原野商法という詐欺に引っ掛けられた