odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

最相葉月「絶対音感」(新潮文庫) プロの音楽家になるのに必須の要件ではないのに、日本では戦前からありがたがられている。

 絶対音感は、ある音を聞くとそれに対応する音の名前を瞬時にあてることができるという能力。絶対音感をもっていると、一度フレーズを聞いただけでピアノで演奏できたり、楽譜と間違っている音をあてたりできるという。さらには聞こえる音がドレミで流れるばかりでなく、自然音でもどの音かを意識するという。また、和音や調性などから色を想像することもあるという。なるほど、指揮者やピアニスト、作曲家には、スコアに書かれた音と間違った音を出すと瞬時に指摘したり、ピアノの鍵盤をでたらめに押したときに出てきた音をあてたりすることができるという。われわれは超能力のように思えるが、その能力は少数がもともと持っているだけではなく、幼少期のトレーニングによって獲得することができるという。

小澤征爾が晋友会合唱団を率いてベルリンで演奏と録音をしたとき、この合唱団がピッチを正確にとることに関係者は驚いたという。本書に秘密が書かれていて、曲の前に絶対音感の持ち主が合唱団にだけ聞こえるように基音を出していたのだって。ほかの合唱団員はそれに合わせて歌ったのだった。)


 

 

 絶対音感の存在を知って(きっかけがパステルナークとスクリャービンの出会いというのがクラオタにはうれしい情報)、音楽家やその関係者にインタビューすると、絶対音感の話をそらすという。絶対音感はプロにはあればまあいいかという程度の能力で、ときに障害になることがあるという。すなわちある周波数を「ド」の音と認識してしまうと、ピッチの違う場合(オケによって異なり、古楽器は低い)に気持ち悪く聞こえ、移調することが困難になる。青柳いづみこ 「ピアニストが見たピアニスト」(中公文庫)によると、老齢で聴力が衰えても同じようなトラブルが起きて演奏が難しくなるという(リヒテルラローチャら)。それは訓練や慣れで克服できるものであるらしいが、克服すると今後は「音楽」をどう作るかという深刻な問題に直面し、絶対音感は「音楽」そのものを規定するのではないということになる。
 では、なぜ絶対音感はプロの音楽家に必要になると思われているか。日本特有の思い込みであるらしい。過去をたどると、20世紀初頭に西洋音楽を日本に移植しようとしたものが絶対音感を育成する教育システムを作った。成果は現われ、ことに軍隊で採用されたので(敵艦、敵飛行機等の識別用)、日本の教育界に普及した。戦後、民間で音楽教育が再開したときにも採用された。斉藤秀雄、吉田秀和らの音楽教室であり、桐朋学院であり(小澤征爾山本直純らが生徒)、ヤマハ音楽教室である(その他有象無象の幼児育成プログラムで採用)。西洋芸術を把握しようとするとき、数値化・要素化できるところで選択し、習熟するためのプログラムを作る。技術的には完ぺきにできるようになり、どんな曲でも演奏できるようになる。その成果は小澤征爾中村紘子らに象徴されるだろう。でも、技術的な問題はないが、でてきた音は「音楽」には程遠い。小澤が「キーを出しすぎる」と注文され、中村が「ハイフィンガー奏法を直しなさい」と注意されるような事態を招いた。日本の近代化は西洋のパテントを買い取り、改良して大量生産品を安く製造するところから始まったのだが、それと同じことが芸術理解でも起きていたのだ。21世紀でも絶対音感を学ばせる状態は、過去の成功にしがみついているように思える。
(そして、21世紀には中国や韓国育ちの人たちが西洋で目立つようになっている。)
 自分が関心を持ったのはこのあたり。他には、音楽を科学する研究について。いろいろなアプローチをしているが、やるほどに科学は音楽に近づけないというのが現状。

 

 

 本書の隠れた主人公は五嶋節。当時売り出し中のみどりと小学生の龍にバイオリン教育をするステージママ。節は子供らにスパルタ教育を施し、みどりの成功後、子離れして心が平穏になる。なぜ彼女に憑き物がついたか、どうやって落としたか。子供への過干渉をどうやって克服するか。これは俺の関心の外なので、ここまで(まあ、絶対音感を持たないみどりが世界的に成功し、持っている龍がローカルタレントなのはなぜかというくらいの興味はある)。

 

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 いろいろなことを盛り込みすぎ。それに「わたし」がたくさん現れて、逡巡する心理や葛藤がかかれる。日本のノンフィクションにはよくある手法だが、問題をぼかしてしまうのではないか。五嶋家族のことは別書にして、3分の2に圧縮すればよかった。