odd_hatchの読書ノート

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粟屋憲太郎「昭和の政党 昭和の歴史6」(小学館文庫)-2 国民は戦争に熱狂し、戦争に期待し、ファシズムの国民運動に参加した。戦後政治の形はこの国民運動で形成された。

2022/12/20 粟屋憲太郎「昭和の政党 昭和の歴史6」(小学館文庫)-1 1988年の続き

 

 1920年代後半の経済トピックは金解禁。本書では記述は少ない。そこは経済史の本で補完しておきたい。
2015/03/23 中村隆英「昭和恐慌と経済政策」(講談社学術文庫)
2015/03/20 長幸男「昭和恐慌」(岩波現代文庫)
2011/05/24 高橋亀吉/森垣淑「昭和金融恐慌史」(講談社学術文庫)
 サマリーにあるように昭和一桁には「要人テロ、世界恐慌、金解禁と2年後の停止(為替差額で財閥大儲け)、満州国の経営難と軍事費増加、給与低下と増税」などが同時に進行していた。この「昭和の歴史」シリーズでは、巻を別にして詳細が書かれている。まとめになる本書では俯瞰はできても詳細は不足している。なので、他の巻の情報を組み合わせて、この時代に何が進行していたかをおおざっぱに見とることが必要。

政友会と民政党 ・・・ 当時の政党の運営状況。党員は100万とも300万とも豪語しているが、党員管理はできず、党費も徴収できない。すると財産に恵まれたものが拠出し代わりに役付きになる。当時の政党は党人と官僚上りの寄り合い所帯みたいなものだったが、不況によって地方財界が打撃を受けると、そこに依拠していた党人の力が弱くなり、都市銀行や独占資本と太いパイプを持つ官僚族が党の運営を担うようになる。二大政党制を目指していた政友会と民政党であるが、政友会は民主主義と大きな国家をめざし、民政党自由主義と小さな国家を目指すという違いがあった。しかし昭和一桁の時代は党首や内閣、大臣などが極右のテロの標的になり、命を落としたものが多数いた(原敬高橋是清井上準之助犬養毅など。これも議会制を危うくした原因になる。

政党と地方政治構造 ・・・ 地方自治中央政府に規制されていた。知事ほか要職が任命制であり、財政も制限されていた。1920年代になると、中央官庁の出先業務のほか、種々の業務が増加した。そのために財政は窮迫する。地方自治権拡大要求運動が起きたが、地方議会に議席を持つようになった政党は地方自治拡大にあまり動かなかった。国会議員選挙で与野党が逆転すると、地方自治の担当者が入れ替わるので、事業の継承が難しくなることがあった。無産政党の議員が誕生することもあり、軍部は危機感を抱いて「草の根軍国主義運動」を検討する(実施は30年代以降)。地方自治で土木事業は生活に重要であり、予算が大きいことから政党と土木業者の癒着がみられるようになった。

危機における政党政治 ・・・ 1930年以降政党政治は危機になる。浜口首相テロ、世界恐慌、金解禁と2年後の停止(為替差額で財閥大儲け)、満州国の経営難と軍事費増加、給与低下と増税。無産者運動が弾圧され、極右の運動とテロ、軍人のクーデター計画などが起きる。1931年、満州事変。世論捜査、メディアの報道、右翼の扇動などがあって、大衆の戦争熱が高まる。政党の中には軍にすり寄ろうとする動きも起こる。翌1932年に515事件がおき、クーデターは失敗するが、首相は職業軍人によって暗殺される。

政党政治の凋落 ・・・ 515の後組閣は軍人が行い、政党の議員は入閣できないか形だけ。政党排撃、戦争支持を訴える国民運動(官製、官僚主導、民間団体)が増加する。515事件の減刑嘆願運動、選挙粛清運動、国体明徴運動など。これらを通じて政党の萎縮、選挙民の選挙離れ、財界・知事など地方自治体の内務官僚の政党離れ、警察の選挙介入などが進む。国会でも議会の発言権、立法権が小さくなり、内閣の権限(主に軍人が担当)が強化される。

政党解消 ・・・ 1936年以降。226事件の後の組閣は陸軍の妨害で失敗が続く。軍が支持した近衛内閣が成立。当人および閣僚は政党出身者を含めて親軍派となり、1937年10月の盧溝橋事件で「日中戦争」が始まる。1936年に「粛軍演説」をした斎藤隆夫懲罰委員会で除名の決議がでる。これで議会における言論の自由を議会自身が封殺する。1940年に政党解消運動がおき、10月に大政翼賛会が成立。綱領もマニフェストもない無内容な組織だった。

戦中から戦後へ ・・・ 1937年の総選挙(低投票率と棄権・白票増加)から5年後の1942年に総選挙が行われた。翼賛会が候補者を推薦し内務省と警察が選挙干渉を行った。無所属などの候補者も出て元政党人も当選した(斎藤隆夫も復帰)。東条の独裁に反発する動きがこのころから起こり、翌年に東条内閣倒閣。反東条派は政治結社の準備をする。大政翼賛会大日本政治会に名称を変更する。WW2の敗戦、占領軍の指導により大日本政治会は解散。旧政党人は敗戦後すぐに政党を作る。

 

 政党に関する政治学は苦手なので、気の付いたところを二点。
・日本がファッショ化、軍国主義化する過程ではおもに軍部の独走が原因とされる。その力は無視できないが、軍部が独走するにあたり国民が戦争に熱狂し、戦争に期待し、国民運動に参加したことが重要。国民運動は軍、官僚、民間団体などが主催したが、それらとくにひとつの組織を作ったのではなく、それぞれが独自に勝手に行ったのだった。これはソ連ナチス、イタリア・ファシスト党中国共産党とは異なる運動の在り方だった。本文中でゾルゲが1930年代の日本政治を分析した文章がでてくるが、そこにあるとおり日本の政治には中心体がない。個々が勝手にやっているのに、ある方向を自律的に向いていく。これが日本の国民運動の奇妙なところ。そのような運動論はおいておくとして、国民運動があったから軍や官僚は統制社会・監視国家をつくり、戦争に邁進することができた。
(1930年に行われた国民運動と同じような運動が21世紀の20年代にも起きている。極右が政党を名乗って「政党内閣・既成政党排撃、民衆の戦争支持、排外主義意識の高揚」を主張している。)
・戦後政治の形は1930年代に作られた。政党が解散し大政翼賛会にまとめられても、会の中では政党的な動きをして、覇権の争いが生じた(なので会が機能しなかったといえる)。東条が独裁体制をつくっても、参加の組織のなかで反東条派が活動して、戦後の保守政党を作る素地になった。無産者や社会主義者の政党も敗戦後すぐに政党を組織した。多くの政党、ことに保守政党では戦争責任を真剣に考えたところはない。なので、自由民主党日本国憲法改正を党是とする政党として成立し、戦後ほぼ一貫して与党になった。

 

 戦前戦中と戦後は断絶していない、占領軍による改革も日本側の主導で行われたところもあるという視点で同じ時代を見直す研究が行われている。以下を参照。
雨宮昭一「占領と改革」(岩波新書) 2008年