odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

金原左門「昭和への胎動 昭和の歴史1」(小学館文庫)-2 WW1後の不況と関東大震災と過大な軍事費の日本の経済発展を妨げる。

2023/01/23 金原左門「昭和への胎動 昭和の歴史1」(小学館文庫)-1 1988年の続き

 

 大きなトピックは関東大震災。日本の流れをかえた。

関東大震災と天譴(てんけん)論 ・・・ 1922年9月1日の関東大震災朝鮮人虐殺はリンク先を参照。社会主義者のリンチ虐殺も大杉栄らのほかにも起きた(亀戸事件)。
2021/03/12 吉村昭「関東大震災」(文春文庫) 1977年
2021/03/11 小沢健志「写真で見る関東大震災」(ちくま学芸文庫) 2003年
 WW1のあと日本は不況になっていたが、震災復興はさまざまな問題があった。リンク先を参照。
2011/05/24 高橋亀吉/森垣淑「昭和金融恐慌史」(講談社学術文庫)
2015/03/20 長幸男「昭和恐慌」(岩波現代文庫)
 これらに書かなかったが本書で知ったことを追加。伝染病の蔓延、軍事費削減を恐れるために大蔵省と軍隊が復興予算を削る。政治家や実業家(渋沢栄一ら)から震災は天が罰したもので日本人の精神を鍛えねばならないという天譴論が登場。戒厳令と「国家思想の善導」の実施で皇国イデオロギーと反共を旨とする国家主義運動が大規模に行われる。
(災害が天による叱責であり国民は悔い改めねばならないという「天譴論」は極右がよく使うデマで脅し。311でも石原慎太郎などがいっていた。)

普通選挙法と治安維持法 ・・・ 憲政会・政友会・政友本党の三つ巴で政局の取り合い。極右で国家主義政党の憲政会、自由主義(経済)の政友会と見ればよいか。1925年の国会で普通選挙法と治安維持法が成立した。普通選挙運動では権利を拡大せよという運動があり、治安維持法には反対運動があったがいずれも法案には反映されなかった。普通選挙はあくまで選挙人を増やし、政党の得票を増やすため(そのために被選挙権に制限があった。また救恤対象者(今の生活保護受給者)は投票権を持たない)であり、治安維持法は労働運動ほかの社会主義及び自由主義運動を制限するもの。けっしてリベラルな法案ではない。実際に、政党の代表には国家主義者が多く、原敬を右翼青年が暗殺したように世の中もネトウヨばかりなのだった。このころから右翼のテロが頻発する。

労働者・農民の改革運動 ・・・ 普選法成立後の選挙で無産者・農民が立候補し当選する事例がでてきた。労働者運動、農民運動がさかんになり、ストライキや小作争議が続発した。企業や政府は、右翼団体暴力団・官憲を出動させて暴力的に鎮圧した。

大衆文化と世相の変化 ・・・ 関東大震災は風俗・大衆文化を変えた。古い寄席や芝居小屋が消え、ラジオ・映画・雑誌・円本などのマスメディアが隆盛。リベラルの拡大にもなったが、政府のプロパガンダが強化されたとみるべきだろう。他の重要なことは1925年に大学の軍事教練が開始。反対運動の学生が治安維持法で検挙(思想統制と社会運動弾圧の強化)。

政党内閣と社会不安 ・・・ 大震災からの復興と日本の不況が直撃して、税収が不足。国債発行と増税で対応しようとしたが、インフレが進んで不況から脱することができない。軍縮に反対する軍部は政党に協力しない。という混乱で政党は混乱している。当時の政党の違いを政治政策でみるのは間違いで(富国強兵と国民統制では一致)、経済政策で重商主義自由貿易かくらいの差異でしかない。

転機に直面する国家と国民(おわりに) ・・・ WW1後、中国貿易は振るわない。シベリア出兵以降の満州派兵は中国で強い反発になり排日運動となった。くわえてアメリカ製品が日本の市場を取ってしまった。それを挽回する方策を検討したいが、震災復興と国内不況でなすすべがない。また、併合後朝鮮人流入が始まる。ヘイトクライムがあっても、はいってくる朝鮮人は増え続ける。
2017/05/25 海野福寿「韓国併合」(岩波新書) 1995年
2017/05/24 高崎宗司「植民地朝鮮の日本」(岩波新書) 2002年

 

 グローバル化が進んでいる。しかし、日本の経済は国際競争力がなく、列強の製品やサービスに太刀打ちできない。列島周辺を安全保障地域にする戦略は、ここで経済ブロックを作ることが目的に加わる。

 自分のこれまでの理解では1910年代の好況で、経済と政治の自由が求められ、政府の統制は厳しかったにしても、自由・平等・平和を求める運動がさかんになった。それが震災による不況や軍部の横暴で押さえつけられていった、というものだった。これは小さなことを過大に評価する見方だった。政治や文化の民主化運動は会ったにしても影響力は小さく、皇国イデオロギーは国民全体に周知されていて、国家の方針に対する異論や異議はほとんどでてこない。農民や工場労働者のような経済弱者を切り捨てる政策は一環して変わらず、国民の大部分は貧しいままなのだった。それにもかかわらず、政府と与党に対する批判や抵抗はほとんど出てこなかった。
 むしろ加藤陽子「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」(朝日出版社)を参照すれば、政府と軍部はWW1後の世界で挫折し狼狽している。方針を見定められない状態で機敏に動けないので、エリートや文化人、学生などがリベラルの運動が可能になった一時期だった、とみたい。
 重要な人物は昭和天皇。震災後に半年間のヨーロッパ漫遊。イギリスの立憲君主制とリベラルに「自由」を感じたらしいが、皇国イデオロギーの老人たちの前で青年政治家として立たねばならなくなる。彼はリベラルがない日本で何をミッションにしようとしたか。