odd_hatchの読書ノート

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井上勝生「幕末・維新」(岩波新書)-2 江戸時代と明治時代の境界をひかない。明治政府の命令に従うものが増え、国家機能ができたら、列強が明治政府を承認するようになった。

2023/02/07 井上勝生「幕末・維新」(岩波新書)-1 2006年の続き

 

 本書で気の付いたのは、江戸時代と明治時代の境界をひかないこと。大政奉還江戸開城天皇入城のようなあるできごとで区別されたとしない。次第に江戸幕府の権威が落ち、明治政府の命令に従うものが増え、国家機能ができたら列強が明治政府を承認するようになった。

第4章 近代国家の誕生1867-1871 ・・・ 慶喜は大名連合政府を構想するが、長州・薩摩は討幕クーデターを画策。討幕の理由は条約締結という失政のみ。開国ではなく「万国対峙」の武装独立を目指す。大政奉還があってもクーデターの準備は進められ、1年半の戊辰戦争で全国を平定。関東では「世直し一揆」「ええじゃないか」の大衆運動があったが、新政府は一揆の首謀者を極刑に処した。江戸期にはなかった焼き討ちや公文書の焼却などがあったためらしい(一揆の要求には江戸の慣行の実行があった)。これも一年ほどで平定する。1868年五か条の御誓文。文中に「皇祖皇宗」とあって、天皇主義イデオロギーはこの時に成立していた。同時に文明と未開を区別する帝国主義が国家像となった。当時のドイツは分権制だった(プロシャ統一前)ので、アメリカ型の集権国家体制を選択。専門部局制をしき組織の冗長さをなくす。権力の頂点は10人程度(そのなかの岩倉、三条、西郷、大久保、木戸、小松の6人に権力が集中)だった。開化政策を推進(鉱工業への投資、交通網整備など)。大名を支配層に取り込み、それより下の上士下士を均等の家禄にして武士階級を解体。藩の自治権を大幅に取り上げ、廃藩置県を実行。これに反発した攘夷派がクーデターを画策。薩摩藩も反発。
(長州薩摩の討幕イデオロギーがすでに神国思想にあり、戦争を辞さない武装勢力であろうとした。軍事的技術的に優位にある西洋には面従しアジア諸国には嫌悪と侮蔑をもつメンタリティは幕末から醸成されていたのだった。本書は維新を「討幕クーデター」とみているが、21世紀に即するとカルト的な愛国宗教集団が封建国家に成り代わり、西洋的な国民国家を形成したのだとみなせる。少数の支配グループが権力を掌握し、大衆の民主主義を認めず、軍政を敷いたのだった。)

第5章 「脱アジア」への道1872-1876 ・・・ 一揆は頻発していたが、岩倉使節団は1年以上かけて西洋を歴訪(すなわち外憂ではなかった)。そして殖産興業と軍事力充実の内治優先を国家目標にする。政府の方針は江戸の「旧弊」の一掃。大臣になった大名を解職し(一般士族の優遇策も撤廃)、解放令などで身分制を廃止し、徴兵制と学制を敷いた。上の国家目標を実現するための施策。解放令などは幕府時代無税であった被差別民の土地からも租税を徴収するため。徴兵制と学制も兵士戸工場労働者育成のため。農漁民らの土地の共同所有を廃止し、地方の自治権を奪った。廃仏毀釈も共同体を解体するため(小学校も複数の村の共同運営にして共同体のつながりを壊した)。
 同時にアジア諸国への強硬外交を開始する。北海道、沖縄、朝鮮、台湾、中国に向けて、植民地化と不平等条約締結を迫る。北海道と沖縄は先住民族がいたが、彼らの所有や人権を無視・制限して、和民の移住を促進した。この時の経験が朝鮮や台湾の植民地化で繰り返される。朝鮮、台湾、中国に対しても高圧的外交を繰り返し、ときに国際法違反の事件を起こした。このような外交と軍事圧力、占領はWW2の敗戦まで繰り返される。
 内政では大久保の独裁体制が確立(これも天皇上奏に乗じたクーデター)。排除された高官の不満、士族の不満、百姓一揆の頻発。これらが1874年の西南戦争に結実。結果、民間人の蜂起は百姓一揆と同様に徹底的に弾圧され、首謀者が処刑されるのが常になる。中央集権を強化し、命令に服従する臣民化政策を進める。
(国の中では皇国イデオロギーで人々の内面を統制する「臣民化」であるが、外の視点でみると、倒幕閥による占領政策なのだとの感。廃藩置県は制度の近代化というより臣と従の封建関係を壊して地域共同体意識をなくし、本国から統治官を派遣して弾圧を強化する施策。廃仏毀釈は国家宗教の押し付けであり、地域共同体の集会所(鎮守の森など)を破壊して一揆住民運動が行らないようにする施策。廃刀令や散髪脱刀令も伝統破壊であり、服装などの外見を統一化していくことだった。以上はヨーロッパが植民地で行った施策と一致し、伝統を破壊し、人々を分断して、強力な中央集権で統制して搾取することだった。明治政府は、地域共同体を組織化した幕府を総否定し、日本全土を植民地化した。植民地政策を行って、独裁体制を作った。日本人は政府の政策を「近代化」として受容していった。)

 

 幕府には様々な問題があり、近代化のために克服しなければならない政治体制であったとしても、これまでの歴史教科書や参考書でいわれてきたほどダメであるとは思えなくなってしまった。それは長州薩摩土佐肥後などの討幕勢力がクーデターで作ったシステムがひどすぎるからそう思えるだけというバイアスがあることは自覚。それでも、幕府の外交は国際協調を旨としていたし、殖産興業に勤め、内政の開放を実行しようとしていた。そこに有志が参集することで、無理のない政治の転換ができたのではないかと妄想したくなる。たとえば、東欧革命のポーランドチェコスロバキア(当時)は既存政権と在野の政治グループが合流して民主政権を作った(しかし21世紀にどちらも極右が強くなっているのは問題)。そういう考えは勝海舟坂本龍馬などにあったのかもしれないが、政治的野心を持たなかったりして主流になれなかったので実現しなかった。
 そうなったのは、孝明天皇と朝廷が吹いたヘイトの犬笛に雄藩や下級武士が呼応したこと(多くの商人や地方豪家などは開国からの貿易開始に期待していたのではないかな。とくに関東のそれら)。外国人への根拠のない恐怖や嫌悪が増幅されて人々に定着し、「攘夷」というヘイトクライムを実行する。それと合わせて身分制と共同体を解体して大衆にし、攘夷運動に組織していく。そのような全体主義運動が雄藩で行われ、多くの下級武士が参加していく。国土を戦場にしてもよいという天皇の意志がこの全体主義運動に貫徹して、国内の敵対勢力と駆逐していく。政権奪取後は、全国民を「攘夷」運動に強制的に参加させ、国内の辺境や先住民族居住地を植民地化し、周辺諸国の侵略を準備する。明治の「維新」とはそういうものであった。
 アレント全体主義の起源」で分析された全体主義運動がナチスソ連に先立って、極東の島国で行われていたのだった。この発見には驚き、慄かされる。日本史の本を読むにつれて、昭和からおかしくなったのではなく、明治の終わりにはおかしかったのだと思っていたが、本書を読んで討幕の時からおかしかったのがわかった。日本には近代はなく、すぐに全体主義ポストモダンになっていたのだった。その点においてのみ、日本はユニークで唯一の国だ。
 このような視点でみたとき維新と明治政府は
・尊攘攘夷の皇国イデオロギーヘイトクライム
・外国に負けた恥(黒船来航、薩英戦争、下関砲撃事件など)に復仇するのが国家目的
・前政治体制の否定と伝統破壊
・身分制の否定 → 皇国イデオロギーの忠実度でヒエラルキー(格差)を作る
全体主義政体なのである。昭和以降に「維新」を名乗る運動も、これを再現するのが目的。