odd_hatchの読書ノート

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野口米次郎定本詩集第3巻 印度詩集 09 タゴール「母の祈願(劇詩)」

野口米次郎定本詩集第3巻 印度詩集 08 タゴール「ソマカとリトヴィク(劇詩)」の続き

 

 

母の祈願(劇詩)

 

カウラワの盲目王ドリタラシュトラと女王ガンダリの子ヅュチョダナは、従兄弟であるバンダバの諸王から領土をいかさま手段によって奪った。

ドリタラシュトラ
お前は目的を達した。

ヅュチョダナ

成功は私のものになった。

ドリタラシュトラ
お前は嬉しいか。

ヅュチョダナ
私は勝った。

ドリタラシュトラ
私は今一度たづねるが、お前は王国の併合を成し遂げたことにどういう幸福を見出したか。

ヅュチョダナ
あなた、幸福を、刹帝利(クシヤトリヤ)は幸福を求めません、勝利に飢える、滴る嫉妬から絞り出す猛烈な酒を欲するのです。私共が従兄弟達の遊戯的統御の下に平和の生活をした時、月の胸に遊在する不名誉の汚点のように、私共は嫌なほど幸福でした。その時バンダバ国は富の世界を搾って、私どもにその分け前を呉れて兄弟のような寛容を示しました。だが今彼らは敗北を喫して追放を期せねばならない、こうなって私はもはや幸福所ではありません、いや欣喜雀躍です。

ドリタラシュトラ
浅ましい奴だ、お前はバンダバとカウラバは先祖が同じだと言うことを忘れている。

ヅュチョダナ
それを忘れることは困難でした、さればこそこの不平等が私共の心を悲憤させました。真夜中の月は昼間の太陽を嫉妬しません。だが二つの国体が一つの地平面を分け合うことは、到底ありえない。神に感謝します、争闘は終りました、私共はついに光栄の孤独を打ち勝ちました。

ドリタラシュトラ
賤しい嫉妬心という奴だ。

ヅュチョダナ
嫉妬は決して賤しくない・・・「偉大」の本体です。雑草は混雑した親交の間に生長することができるが、巨大な樹木はそうはならないものです。バンダバの青白い月は森影の向こうに達しました、しかし、カウラバの太陽は新しく東天を上ります。

ドリタラシュトラ
だが権利が蹂躙された。

ヅュチョダナ
支配者の権利は人民の所謂権利なるものとは違っている。人民は友情によって栄える、だが王様には平等ということが敵だ、前ではそれが障害物になり、後からは非常な恐怖であります。王様の政略には兄弟とか友人とかを考慮する所がない。その厳たる一つの基礎は制服です。

ドリタラシュトラ
いかさま博打で勝ったものは制服とは云えない。

ヅュチョダナ
徒らに挑むに歯や爪の同等の武器を拒絶した所で、人間の恥辱ではありません。私共の武器は成功のためで、自殺のためでない。父よ、私は結果を誇るものです、方法如何を問いません。

ドリタラシュトラ
しかし正義が・・・

ヅュチョダナ
正義を夢見るは愚者のことです・・・成功は彼等のものでない。支配者たるべきものは力に依頼する、何者も憚らない無慈悲な力を信じる。

ドリタラシュトラ
お前の成功は誹謗の激しい津波を招くであろう。

ヅュチョダナ
人民は驚くほど短日月に、ヅュチョダナが彼らの王様であって、彼が敵を足下に潰すだけの実力のあることを知るでしょう。

ドリタラシュトラ
敵は舌の先に踊り疲れて消える。だがそれを人の心のなかに追い込んでいつかそれが勢力を集めるであろう。

ヅュチョダナ
語られない悪口は王様の権威を害しない。愛が私どもを拒絶した所で、私は意に介しません、しかし無理な言行は許すべきでない。愛は与えるものの意志にかかる、それで貧しい人間は寛大な行為によって自分を甘やかすことが出来る。私は彼等が愛を、飼猫や愛犬や私共の善良なる従兄弟バンダバに浪費したければさせて置く。私は決して彼らを羨まない。私が私の王座に要求する貢物は、ただ恐怖の一字あるのみです。父よ、あなたは餘に情深く、あなたの子供達を中傷するもの共へ耳をお貸しになった。然し若しあなたがなおもあなたの信心深い友達を許して、あなたの子供達の犠牲によって非難の酒宴に耽らせる積りであれば、私共は王国を従兄弟の追放に取代えて、無人の荒野に出掛けて友人の尊いことを知りましょう。

ドリタラシュトラ
友人達が私に与えた敬虔な忠告が、私の子供達に対する愛を縮小し得たならば、私共は救われたのだ。然し私はお前の命の泥田に手を入れた、そして善に対する私の意識を失って仕舞った。お前のために私は軽率にも、われが血統の古い王家の森林に火をつけた・・・私の愛はかくも悲惨だ。私共は二重の流星のように、胸と胸とを抱き合わせて、盲目的に没落へと飛び込んでいる。それだから私の愛を疑って呉れるな。滅亡の崖ぷちに着くまで、お前の抱合を弛めて呉れるな。おお、勝利の太鼓を打ち鳴らせ、凱旋の旗を高くかかげよ。この勝ち誇る罪悪の狂乱の間に、兄弟達も友人達も散り散りばらばらになるであろう、しかしてこの運命づけられた父と運命づけられた倅と、神の呪詛の外何物も残らないであろう。

侍者登場
ガンダリ女王が謁見をご所望でございます。

ドリタラシュトラ
御出でくださいと女王に伝えよ。

ヅュチョダナ
失礼させてください。
(退場)

ドリタラシュトラ
逃げるのかお母さんの面前が恐ろしいのだな。
(ヅュチョダナの母ガンダリ女王入り来る)

ガンダリ
一つのお願いの次第があって。

ドリタラシュトラ
お語なさい、あなたの願いは聞き届けられましょう。

ガンダリ
彼を捨てる時が来ました。

ドリタラシュトラ
誰を?

ガンダリ
ヅュチョダナです。

ドリタラシュトラ
あなたのせがれヅュチョダナを。

ガンダリ
そうです。

ドリタラシュトラ
これは恐ろしい願の筋だ。

ガンダリ
極楽にいますカウラバの先祖達は、この私の嘆願に同意されて居ります。

ドリタラシュトラ
神聖な法官が、神の法律を破った彼を罰するであろう、しかし私は彼の父だ。

ガンダリ
私は彼の母でありませんか。私は彼を私の轟く胸に抱いたではありませんか。そうです、私は不正義なるもの、ヅュチョダナをお捨てなさるようにお願いします。

ドリタラシュトラ
そうしたならば何が私共に残るだろうか。

ガンダリ
残るのは神様のお恵みだけです。

ドリタラシュトラ
それが何を私共に与えるだろうか。

ガンダリ
与えられるのは新しい苦痛です。私共が倅を眼前に見る喜と新しい王国の誇り、またこの二つが不正に贖われたまた私どもはそれを黙許したという恥辱とが、二方に働く棘のように、私どもの胸を裂くであろう。タンダハ族は彼等が放棄した土地を、私共から受けるには餘りに気位が高い。それで私どもが進んでいる大きな悲みを私共の地上に齎らし、よってその刺痛みから不当な扱いを受けないことがいいと思います。

ドリタラシュトラ
女王よ、お前は既に敗れた心の上に、更に新しい苦痛をつけ加える。

ガンダリ
あなた、私共の倅に課された懲罰は、彼より寧ろ私共のものでありましょう。法官がその加える苦痛に無感覚であるに於いては、法官に裁判する権利がない。そして若しあなたが自分の苦みを救うためにあなたの倅を助けるならば、嘗てあなたによって罰せられた犯人達は、神の社前で復讐を叫ぶであろう・・・彼らもまたそれぞれ親を持ったではなかったですか。

ドリタラシュトラ
もうやめて呉れ。女王よ。私共の倅は神に見捨てられている、これが私が彼を見限られない理由だ。彼を救う事はもはや私の権内にない、それで私の慰藉は彼の罪を分ち、破滅の道を歩いて彼の寂しい道連れになることだ。なさるべき事は成された、続いて来るものを続かせよう。
(退場)

ガンダリ
私の心よ、静かであれ、しかして忍耐強く神の審判の来るまで。恐るべき夜はすぎゆく、精算の朝は近づく、私は朝の戦車が雷のように轟くを耳にする。女よ、お前は地に頭を垂れよ、供物としてお前の心をこの戦車の轍のしたに投げよ。闇黒は空を覆うであろう、地が震えるであろう、悲鳴は空気を裂くであろう、しかし、後来るものは静かな残忍な最後だ・・・恐ろしい平和、あの偉大なる忘却と嫌悪の厳かな消滅・・・ああ、死の火焔から立ち上る無常の解放。



ドリタラシュトラは倅の不純な勝利欲を是認して、その罪を彼と共に破滅の寂しい道を行くことによって逃れようとする。その態度は消極的だ如何にも印度人らしい。女王ガンダリも精算の朝が近づいて神の裁判が下るのを待っている。彼らは地に頭を垂れてその心を供物として戦車の轍の下に投げんとするのである。しかし、彼女は恐ろしい最後の平和を得んとするのである。この平和こそ死の火焔から立ち上る無常の解放であるとする所に、タゴールの悲壮な哲学があるのだ。死は偉大な忘却でありまた嫌悪の厳かな消滅である。
本小劇詩は印度の古代大抒事詩マハーバラタ第二巻によって書かれたものだ。

 

野口米次郎定本詩集第3巻
印度詩集

友文社
昭和二十二年五月十五日印刷 五月二十日発行 定価四十二苑