odd_hatchの読書ノート

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ギルバート・チェスタトン「知りすぎた男」(江戸川小筐訳) 上流階級を知りすぎると、人権を無視し国家の威信を優先する。

 1922年初出の本書の翻訳は南条竹則訳(創元推理文庫)と井伊順彦訳(論創海外ミステリ) の二つが出ている。今回は、マニアによる翻訳を使った。

longuemare.gozaru.jp


 探偵役は「知りすぎた男」ホーン・フィッシャー。新聞記者ハロルド・マーチとちょろちょろしていると、不可解な事件に会う。「知りすぎた」知識と観察眼で謎を解く。

 

第一話 的の顔 ・・・ 山道を歩いていると、突然自動車が降ってきて、運転していた男が死亡する。事故とも自殺ともいえない。周囲を歩いていたフィッシャーは「三本脚で一つ目の、虹色をした動物」を探しに行こうと言い出す。「ペンドラゴン一族の滅亡」に似たトリック。死んだ男は「後ろ暗い人物にとって恐怖の的」で、大蔵大臣に、社会改良主義者(フェビアン協会かそのシンパなのだろう)が登場。市井の事件ではなくて、政党や行政にかかわる重要人物たちの間で起きる事件なのだった。事件は事故とされたが、フィッシャーの暴いた真実は日の目を見ない。

第二話 消える王子 ・・・ アイルランドの扇動家で活動家(「王子」)をイングランドの警察が追っていて、ある塔に追い詰めた。包囲して突入すると、銃撃の応酬。二人の警官が死亡。しかし塔の中にはだれもいない。どうやって消えたのか。警視総監の秘書フィッシャーが眠たそうに、真相を解明。ザングウィル「ビッグボウの怪事件」の変奏。アイルランド独立運動の歴史は古い。

第三話 少年の心 ・・・ 古い遺跡が発見され、見つかった古い銀貨が公開されていた。テロの対象になっていたので警備は厳重。警備責任者と少年とマギ(宗教的魔術師)が見学していたら、少年のそそっかしさで停電になった。しばらくして外部から開けてもらったら、銀貨がなくなっていた。

第四話 底なしの井戸 ・・・ アラブのイギリス軍駐屯地。隊長のヘイスティングス卿が底なしの井戸に向かう途中で死んでいた。毒殺。その直前に、部下と一緒に図書室に入り、コーヒーを飲みながら、稀覯本を探していた。フィッシャーの謎解きはすばらしいが、どうやらスキャンダルを恐れて真相は部隊の手によって隠蔽された模様。

第五話 釣り人の道楽 ・・・ 別荘地に首相以下大臣が集まっている。スウェーデンとの危機が近づくなか、外務大臣と相談したいが、大臣は川の中島で釣りをしていて人を寄せ付けない。日も暮れるようになってから、彼が絞殺されているのが発見された。衆人環視のなかどうやったのか・・・って、警察が捜査しているのに、フィッシャーの真相と同じ結論がくだせない不自然さ。

第六話 塀の穴 ・・・ 氷上仮装パーティの翌朝、誰をもいらだたせるバルマー卿が行方不明になった。朝、スケートをすると頑強に主張し、その朝、深さ2フィートしかない池に穴が空いていた。フィッシャーは地名「塀の穴(The Hole in the Wall)」が重要という。

第七話 一家のお馬鹿(沈黙の神殿) ・・・ ホーン・フィッシャーは若い時にリベラリズムの主張で議会選挙に立候補した。それは不正がうわさされる保守派を追い落とす勢いになった。彼のあくどいやりかたの理由如何によっては不出馬にしようかと思って、直談判に言った。その直後、フィッシャーは暴漢に襲われる。よくわからない。リベラリズムの平等の主張よりも、保守派の愛国政策の方がましということか?

第八話 像の復讐 ・・・ 首相たちが事態の推移を検討しているさなか、重要書類を届ける密使が殺された。大きな石の像につぶされていたが、死んだ後にコートを脱いだらしい。重要書類は盗まれていた。フィッシャーは首相といっしょに姿を消した後、新聞記者にいっしょに捜査に行こうと誘う。

 

 うかつものなので、最後に至ってようやく英国はアイルランドと緊張状態にあり、戦争寸前にあるという設定なのがわかった。イギリス史は高校の歴史で概略を勉強するが、アイルランドの歴史は教えられない。なので無知でした。WW1のころから激しい独立運動があり、小説が書かれた時期に独立が達成された。
アイルランド共和国 (1919年-1922年)

ja.wikipedia.org


 第八話では国境沿いの町がアイルランド軍に包囲されているのにすぐに対処しなければならないというところまで切迫していた。この状況において、フィッシャーは事件の利害関係にない第三者の立場をとれない。なんとなれば、フィッシャーはイギリスの貴族社会の生まれで、首相・外務大臣法務大臣・警視総監などの政府の重要人物を幼少期から「知りすぎた男」だからだ。そのために、まず最初に彼らの利害の代弁者にならなければならない。
 したがって、フィッシャーは解決をあいまいにする。犯人と犯行の謎は暴かれるが、犯人の警察引き渡しはほとんど行われない。それは上記のような国家の危機にあって、事件の解決はスキャンダルであり、直面する問題の解決を損ねるからだ。すなわち、通常の探偵小説が法治主義を遵守するのに、本書では国家の威信を優先する。結果、個人の人権はあとまわし。そこらへんが如実に現れているのは、第七話。若きフィッシャーはリベラリズムを主張して人気を得るが、周辺人物(およびチェスタトン)は悪徳な保守政治家を貴族院に送ることを企む。それは現在の保守政党政権が国家危機を解決するのには、悪徳政治家の力を必要とするから。個人の資質や経歴よりも、主義や思想のほうが大事。イギリスの貴族政が長い歴史をもち、高貴な義務を肉体化し立憲君主制を実行するという矜持をもっているためだろう。チェスタトンの生きていた時代はイギリス貴族も資産を持っていて、余暇が十分にあったから、貴族政はできた。WW2以降は貴族は資産を減らし(おもには土地収入がはいらなくなり、農業の売上が減ったためだろうなあ)、過去のようなことをいっていられなくなった。それに人権尊重が基本的な考えになって、上にまとめたような貴族政を擁護することができなくなった。なので、チェスタトンの考えはアナクロで現代的ではない。それに隣国との紛争を戦争で解決するのも時代遅れで野蛮になった(2020年に読んだときの感想)。
 フィッシャーはバルドゥイン・グロラー「探偵ダゴベルトの功績と冒険」(創元推理文庫) のダゴベルトと同じなのであるが、ダゴベルトは成り上がりなので階級のつまはじきでありいつでも抜け出せたが、フィッシャーはずっと貴族の一員でなければならない。そのために第八話で彼は姿を消さなけらばならなくなる。ここも法治主義の探偵小説の規範に外れた行為だ。
 加えて、本書が精彩を欠くのは、上流階級のみで事件が起きているところにある。使用人や警察官など下層階級出身者はまったくめだたない。最初から事件には関係ない「見えない人間」にされているのだ。それはもう探偵フィッシャーが上流階級出身者だからというしかない。その点、ブラウン神父や詩人ゲイルはその職業によって二つの階級を行き来でき、下層階級者を人間として扱うことができた。そこから「見えない人間」を可視化させて、恐るべき「犯罪」を引き出せたのだ。そういうきっかけをもたないフィッシャーは上流階級には「知りすぎた男」かもしれないが、イギリス社会全体においては偏見の持ち主であった。

 


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<参考エントリー>

odd-hatch.hatenablog.jp

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 「知りすぎた男」ホーン・フィッシャーと同じく、政府と貴族制を「知りすぎた男」であるポンド氏の探偵譚。

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