odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

アンドレア・H・ジャップ「殺人者の放物線」(創元推理文庫) シリアルキラー物はどれも同じ話になるので、何か別の物語を追加しないといけない。

 アメリカ東部で「レディ・キラー」と警察が名付けた連続殺人犯(シリアル・キラー)がもう数年事件を起こしている。被害者、土地などの要因を分析しても、プロファイリングしても犯人が浮かび上がらない。そこでFBIは天才的な女性数学者(データ分析による予測数学)に協力を依頼した。彼女は企業のマーケティングコンサルを主にやっていたが、ときに犯罪捜査にも関わっていたのだった。だが、彼女は明晰であるが人付き合いが極端に悪く、自己防御に徹していたし、プライバシーに触れられることを極端に嫌っていた。50代のFBIの捜査官は結婚に失敗し、離婚調停の最中だった。彼は離婚を望む妻に罰せられることを望んでいるようだった。この二人が互いに相手と親密になるのを避けながら、捜査を進める。

 というわけで、シリアルキラーは誰かという謎解きはできない小説なのだと早々に判断して、数学者の思考を追いかけるのを楽しむことにする。通常のデータ分析では埒があかないことがわかると、捨ててきた情報をこねくりまわす。しかしなかなかうまくいかない。前半の思考の悶々は、頭がよい人だけがなれる特殊な職業の仕事を見ているよう。FBIの仕事ぶりもまずみないので、ここまでは特殊な職業を書いた小説のよう(映像化すると「科捜研の女」になりそうだ)。あるとき「レディ・キラー」がへまをすると(全体の半分あたり)、そこから新たな視点があたる。容疑者が絞られ、前半の捜査のやり直しをする。期せずして「レディ・キラー」のへまはおとり捜査のようになり、後半はマンハントの追いかけ。
 シリアルキラーものはトーマス・ハリス「羊たちの沈黙」くらいしか読んでいないので、よく知らないジャンル。でも、本書はハリス作とよく似ているなあ、というのが感想。それよりも、むしろクイーンの作を思い出した。全体の構成は「九尾の猫」。ことに被害者のミッシングリンクをどう隠すかというところ。クライマックスの追いかけは「エジプト十字架の謎」。1996年作だが、小道具(PCやヘリコプターなど)を除くと、古い意匠でできているのだった。
シリアルキラーの追いかけでは、ロバート・マキャモン「マイン」も連想した。「レディ・キラー」も1960年代を引きずっているところなどが共通)。
 シリアルキラーものは同じストーリーになってしまうのかしら。そうすると作者の技術はどういう物語を追加するかで現れる。古い作にないのは、主なキャラクターの内面描写。上の二人はコミュニケーションに四苦八苦し、自分が傷つけられたり傷つけたりするのを恐れている。1950年代のクイーン作ではパターナリズムとマチズモが捜査関係者で機能していたから、男は強い立場でいられて、女性は捜査の中心にいることはできなかった。それが1990年代になると、形式上の男女同権があるが、古い環境になれてアップデートできないものは新しいコミュニケートを作れない。同権で平等な立場にあるといっても、女性であるだけでさまざまな障害が起こる。本書の主題はそこにあるのだろう。シリアルキラーである「レディ・キラー」が若い女性だけを襲うというのも、そうした状況の暗喩であるのだろう。
 また二人は古いトラウマをもつ。女性数学者は知的障害を持つ姪を隠しながら、強い義務感をもって育てている。親のいない姪になぜ彼女は親身になるのか。FBI捜査官は失敗した結婚の清算で自己処罰になるように行動する。いずれも家庭内の問題だが、この作の30年前のロス・マクドナルドの世界では複数人を巻き込んだものになるのに、1990年代では個人の問題にされている。二人は他人の介入を拒む。孤立化アトム化した個人が抱えるには大きすぎる問題を抱えなければならない。そのなんと寒々しいこと。事件は解決したが、二人の問題は解決しないので、ミステリが与えるカタルシスには無縁だった。
 ということでストーリーの外の状況をいろいろ考えた。

 作者はフランス人でアメリカで長年仕事をしてきた経験を持つという。フランスミステリはもっと狭い交友関係のどろどろを描くものだという思い込みがあったので、アメリカミステリの書き方を取得しているのが驚きだった。ただ気に入らないのは、キャラクターが白人ばかりで、非白人が登場しないこと。FBIや研究所などで働く白人のまわりには、多数のエスニックマイノリティがいるはずなのだが、透明にされている。見えないから彼らの抱える問題がないことにされる。1990年代にこの意識だったのか、と落胆。

 

 

「ステレオにパブロ・カザルスの演奏する、ボッケリーニの『チェロ協奏曲変ロ長調』のCDをかけた。フリードリヒ・グリュッツマッハーの自由奔放な解釈によるこのバージョンは、この傑作のほとんど公式な演奏といえるものだ(P161)」

 フリードリヒ・グリュッツマッハーは19世紀末のチェリストでこの曲の校訂者。19世紀中ボッケリーニ(1743-1805)はほぼ忘れられていて、19世紀末から再評価が始まる。カザルスは1938年にランドン・ロナルド指揮ロンドンフィルの伴奏で録音した。

www.youtube.com

 

「第2楽章の<アレグロ・ノン・トロッポ>(P162)」

 残念、「アダージォ・ノン・トロッポ」です。

ja.wikipedia.org


 解説によるとグリュッツマッハーの校訂は、自筆譜などに忠実というより、編曲であるということ。たとえば、上掲第2楽章は第7番第2楽章の転用だそう。