odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

トーマス・マン「だまされた女」(光文社古典新訳文庫) 老年女性の道ならぬ恋は抑圧からの解放か、それともはしたないのか

  1920年代のデュッセルドルフ。ドイツのある家族がアメリカ人を英語の家庭教師に雇う。女主人は夫に先立たれ更年期になっているが、この単純素朴なアメリカ人に惚れてしまった。とはいえ、ドイツの道徳ではつつましくなければならない。この設定から、いくつも犯罪小説を考えた。F.ブラウンなら積極的にアプローチしてアメリカ人が計画している犯罪計画を暴いただろう、アイリッシュならアメリカ人の策略で資産を奪われ放り出されただろう、シムノンなら深みにはまっていく年の離れた愛人たちが隠蔽のために犯罪を犯して破滅していっただろう、などと。でもこれはトーマス・マンの小説だ。

 この未亡人ロザーリエには娘アンナがいる。内反足で歩くのに障害があり、男が言い寄らない。なので、性愛を断念している。息子はギムナジウムの上級生なので、性的欲望はまだうまれていない(というのはちょっと不自然)。アンナはいち早く母の異常をみてとり、その理由もわかった。そこでたしなめもするが、有頂天になった母ロザーリエは聞く耳をもたない。なにしろ閉経したはずなのに、生理が戻ったのだ。とはいえ、慎みを保つことには同意した。あるとき、家族と家庭教師がうちそろってピクニックがてら宮殿の見学にいく。ある暗い部屋にロザーリエと家庭教師のふたりだけになったとき、ロザーリエは家庭教師に告白し、ハグし、キスした。唇から漏れる言葉は、それこそワーグナー「トリスタン」のイゾルデが発する言葉のよう。この官能のひとときの後、ロザーリエは突如体調を崩してしまった。
 時代は「混乱と雅な悩み(1925年)」のころであるが、1953年から当時を振り返ると、傷痍軍人の家庭であるロザーリエたちの家にはハイパーインフレの影響はない。政治や経済の背景がないので、おのずと小説は抽象的な空間で行われているように見える。
 ロザーリエは発表当時からすると「年甲斐もない」「はしたない」行為とみられるのであるが、思えば同じような情熱を老年になってから見出したひとに、「ワイマルのロッテ」の主人公シャルロッテもいるのであり、女性が抑圧がある社会でも解放されたいと願う心情に対して目を向けるべきだろう。そうすると、「トニオ・クレーゲル」「ベニスに死す」など、作家が若いころのモチーフにしていた禁欲がここでは消えていて、特に女性の側の情熱と自立への意志に敬意をもっているらしいことがわかる。この小説では禁欲を代表するのは結婚と性愛を断念している娘アンナであるが、彼女の説得や意見はロザーリエには届かない。その情熱は立った一瞬だけ燃え上がり、一瞬の記憶だけを残して消えてしまう。なにしろ、トーマス・マンは病気を描く作家なのだ。その結末のつけかたは上の犯罪小説とは異なり、未亡人を懲罰しているように見える。それは19世紀人である作家の道徳観なのかしら。
 道ならぬ恋というと、同時代にグリーン「情事の終わり」があり、そこでは男女が何度もあっては会話し、しかし会話がかみ合わないし、会うほどに二人の距離が開いて、見知らぬ相手との三角関係に生まれる嫉妬があった。しかしここでは嫉妬の感情はほとんどなく、男女の会話もない(なにしろ相手のアメリカ人は単純素朴で口説きも演技もできないのだ)。会話は母と娘の間でだけ行われる。なんとも奇妙な「恋愛小説」。
<参考エントリー>
2012/09/03 グレアム・グリーン「情事の終わり」(早川書房)
(ここで余談をすれば、トーマス・マンの小説にでてくる家族には誰かが欠けている。女性の主人公のたいていは父や夫がいない。ここでもロザーリエの夫は昔に事故死していて、母子家庭になっている。夫や父の存在が欠けていて、今生きているキャラクターに影響していない。男の桎梏がないところから、愛の感情が生まれる、というわけかしら。男性の主人公になると、母や妻がいない。単独で生きている男たちは女に依存的なのに、傲慢で尊大にふるまい、孤独であることを嘆く。男の雄弁と博識は読者を圧倒するが、生きることには消極的で受け身だ。21世紀から見ると、だらしなく見える。)
 女性の情熱という視点で感想を書いたが、もう一つ気になったのは、「アメリカ人」に対する感情。この24歳のアメリカ人は、祖国を嫌う単純素朴な人物。ヨーロッパの歴史に博識。マナーを心得てはいるが、でもどこか傲慢。WW1のあと世界の中心から外れてしまったヨーロッパが、傍若無人にやってきて経済力と無知で圧倒してくるアメリカに対する感情を象徴しているように思えた。ほぼ同じ言語を使い、ルーツはヨーロッパにあるが、数百年の地理的隔離で亜種になってしまった元同胞を眺めるような感じをもっている。健康ではあるが単純素朴というアメリカは、羨望と嫉妬、憧憬と嫌悪の入り混じる「他人」なのだろう。
<参考エントリー>
2020/08/24 アガサ・クリスティ「オリエント急行の殺人」(ハヤカワ文庫) 1934年
2011/12/04 グレアム・グリーン「おとなしいアメリカ人」(早川書房)


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 この小説は1953年、トーマス・マン78歳の作品。この年齢で性愛を主題にするのはめずらしい。発表の二年後に死去。完成した創作としては最後の作品。このあと「詐欺師フェリークス・クルルの告白」の第1部を発表したが全体は未完。