odd_hatchの読書ノート

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トーマス・マン「ファウスト博士 下」(岩波文庫)-2サマリー

2023/04/13 トーマス・マン「ファウスト博士 下」(岩波文庫)-1 18世紀からの教養市民層の終わり 1947年の続き

 

第34章 1919年。アドリアンの体調は回復して、「黙示録」がわずか半年で創作された。

「むしろ病気において、そしていわば病気の保護のもとで、健康の諸要素が働いており、病気の諸要素は天才の働きをして健康の中へ移される」

と書いたのは、病気に罹患することが聖性を帯びるという19世紀の病気観に由来。
音楽に関しては、19世紀の古典派やロマン派が使わない奏法を作者は嫌う。

「響きの有する規格化的な標準秩序は、われわれが音楽と解するものの前提であり最初の自己表明であった。その中に停止して、いわば自然主義的な先祖返りとして、前音楽的な時代からの野蛮な痕跡として、滑音、グリサンドがある。これは深い文化的な理由からして最大の注意をもって扱わるべき一つの手段であるが、私は常にこれから反文化的な、否、反人間的な魔神めいたものを聴きとるような気がした(P39)」

なるほどグリッサンドを多用するマーラーなどがドイツ国内で人気を持たなかったのはここにも理由があるのか。
前年のWW1の敗北はドイツ人にとって衝撃であった。とくに官僚やインテリたちにおいて。その後に憲法が改正されて、国家の形が変わる。作者や語り手のような伝統保守の人々は、市民や大衆の熱狂に鼻白む。というのは、

「敗北によってわれわれドイツ人に与えられた国家形態、われわれのふところにころがりこんできた自由、一言で言えば民主主義的な共和国が、査証ずみの新しいものをおさめる重要な枠だとは一瞬たりとも認められず、当然だという合意のもとに、一時的で事態にははじめからなんの意味もないものとして、いやそれどころか悪ふざけとして投げ捨てられた」
「自由が自己主張するためには、自由を、つまり自由の敵の自由を束縛せざるを得ない、すなわち自己を止揚せざるを得ない限りでは、自由は内的に自己矛盾するのであってみれば、なおさらだ、というわけだった」
「平均化され解体され接触を失った、個人同様に途方にくれた大衆を抑圧する専制的強権へと進む時代が始まった」

このような民主主義などの啓蒙の野蛮に対して、伝統保守

「個体のイデーに結びつけられた諸価値、すなわち真理、自由、権利、理性などは完全に力を失ってしりぞけられる」べきであり、「これらの諸価値が青白い理論から引き離され、血を注いで相対化されて、暴力、権威、信仰の独裁というはるかに上級の法廷に関係づけられ」るべきであり、「暴力、協同体の権威で」統治されるのであると夢想する。すなわち、ナチズムの到来を期待するのであった。
「病人の大がかりな非保護、生活不能者、精神薄弱者の殺害さえも、他日そういう事態に移行したときには、疑いもなく民族衛生学的、種族衛生学的に根拠づけられ」
「ヒューマニティを潮るひどい暗い時勢、大規模な戦争と革命との時代を受け入れようとする人類の本能的な姿勢が問題となる」。

こうして現在の否定は過去の希求となり、封建制絶対王政、あるいは宗教的権威による統治が念願されるようになる。そしてブルジョア文化に代わる対極は野蛮でなくて共同体であるとされる。

第35章 1922年。彼らの知り合いである女優が弁護士と実業家のいざこざにまきこまれて自殺した。

第36章 充実した1920年代。1926年に「黙示録」がミュンヘンクレンペラー指揮で初演され、「宇宙交響曲」がブルーノ・ワルター指揮で演奏された。「黙示録」はある女性の援助でユニバーサル出版(実在)から出版された。一時期アドリアンは女性の家に滞在したほどである。この女性パトロンは決してアドリアンと会おうとしなかった(こういう匿名のパトロンチャイコフスキードビュッシーにもいたことで知られる)。
ワイマール共和国について。

「ドイツ共和国は、ドイツをヨーロッパ化し、あるいはまた《民主化》し、諸民族の社会生活に精神的に関与させるという意味でドイツを標準化する試み、全然見こみのないわけではない試みであった」。

第37章 ポーランド出身のユダヤ人が現代音楽のプロデューサーとしてアドリアンをスカウトに来る。長い長いおしゃべり。
(でも、この幼稚な饒舌と批評はスノッブ(あるいはレコードマニア)にとってはとてもよくわかる内容なのだ。おそらく音楽批評家として珍重されるにちがいない。)
ブルックナー評(ナチスは1930年代にワーグナーのほかブルックナーも熱心にプロパガンダに使用した)。

ブルックナーは、素朴な子どもっぽい心情の持主と呼ばれるような人間で、堂々たるゲネラルパス音楽に没頭し、ヨーロッパ的教養のあらゆる問題に関してまったくの白痴だった」。

そのとおりです。

第38章 1924年バイオリン協奏曲(33章参照)が初演。好評。その後のサロンでの社交的会話。音楽の官能性について(精神性がなくても官能性は人を感動させられる)。

第39章 1924年アドリアンはベルンである舞台美術家の女性と出会う。翌年1月、語り手に彼女と結婚するつもりだという。戦前羽振りのよかった貴族や軍人などは歴史から姿を消す。

第40章 冬、アドリアンと婚約者、語り手夫婦でミュンヘン近郊へ遠足にいく。ルートヴィヒ2世の立てた城をみながら、狂気の王の自殺について語り合う。

第41章 アドリアンはマリーへの結婚を決め、仲介を友人のバイオリニスト(バイオリン協奏曲を依頼した人)に頼むつもり。しかしバイオリニストもマリーを心憎く思っていたのだった。握手をして二人は別れる。

第42章 当然のことながらアドリアンは友人と愛人を失った。一度ははねつけたものの、舞台美術家はバイオリニストと結婚し、パリに行くことにしたのだ。ミュンヘン最後の演奏会のあと、たまたま市電で語り手はバイオリニストらと出会う。彼は目を背ける。その直後、彼らの共通の友人である女性がバイオリニストに発砲した。
(「ドイツ的」は精神的純粋性ではなく、政党の合言葉になった、と語り手は述懐する。)

第43章 1926年はアドリアンにとって不毛の年だったが、翌年は充実した室内楽の年。弦と木管とピアノの音楽、弦楽四重奏曲、弦楽三重奏曲。「ファウスト博士の嘆き」を構想した年でもあった。アドリアンの書付、《この悲しみはファウスト博士を動かし、彼の悲嘆を記さしむ》

第44章 1929年、アドリアンの妹が体調不良になって子供たちの世話ができそうにないので、アドリアンの家で過ごすことになった。下男下女、周りの大人たちがこぞって子供らの世話をするようになる。アドリアンも子供の顔を見る。
(という平和の話の前に、

「私の物語はその終末に向って急ぐ、――すべてがそうである。すべてが終末に向って押し寄せ殺到し、世界は終末の徴候を帯びている、――少なくともわれわれドイツ人にとってばそうである。ドイツ人千年の歴史はこの結果によって否定され、不合理であると論断され、不幸な失敗であり邪路であることが証明されて、虚無、絶望、比類なき破産、音高く焔が周囲を踊り回る堕地獄、に終ろうとしているのである」

と悲嘆する。)

第45章 1930年、アドリアンになついていた5歳の男の子が脳膜炎のために苦しんで死ぬ。
アドリアン「善にして高貴なるものは存在してはならない」と自己懲罰のような言葉を発する。)

第46章 1929-30年にかけて書かれた「ファウスト博士の嘆き」(ファウストカンタータ)を文章で説明する。ドラマを欠き、いつまでも変わらない。ベートーヴェンの第9交響曲のネガで、救済の考えを誘惑として退ける。没落を予知的に先取りしている嘆きの変奏曲。Heaees(エスメラルダ)の音形が全体を通じて繰り返される。
(こんな長大作品をヒンデミット、ワイル、プフィッツナーカール・オルフの時代に誰が受け入れたのか。あと「ファウスト博士」のテキストはゲーテではなく、古いドイツ民衆本からとっている。)

第47章 1930年の夏、アドリアンは友人知人を自宅に呼び寄せた。合唱作品を試演するという名目であったが、アドリアンの目論見は告白であった。

「私は彼に、自分の血によって高価に魂を売ったので、砂時計の砂が流れ落ちて、彼の商品である時間が尽きるときに、私は肉体も魂も永遠に彼のものとなり、彼の手中に落ちて、彼の意のままになるのです(略)私は二十一歳のときから、何もかも承知で悪魔(サタン)と結婚していて、この世で名声を得ようと思ったために、危険とは知りつつも、慎重な勇気と自負と不遜とから彼と約束、盟約を結んだのです。つまり二十四年の期間中に私が生み出し、人々が正当にも不信の念をもって見たすべてのものは、《彼》の助けあればこそ完成したもので、毒の天使に吹きこまれた、悪魔の作品なのです」

そして、実の妹と姦通して息子をもうけたが、8か月後に亡くなったこと。妹に求婚した男を殺したことを告白した。
(このような不倫、近親相姦などは世紀末ウィーンの芸術家によくあり、スキャンダルになった。思いつくだけでも関係者には、グスタフとアルマのマーラー夫妻、エゴン・シーレ、ゲオルグ・トラークル、アーノルド・シェーンベルクなどがいる。)

結び 告白したアドリアンは失神し正気を取り戻さなかった。1940年8月25日に死去。
語り手は1934年に大学の教職を解かれる。その時からの野蛮な10年でドイツは無縁の存在と化した。1945年の敗北によって、知ってはいたが口にしなかった収容所をドイツ人は見ることになり、その虚無におののくことになる。


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