odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

トーマス・マン「トニオ・クレーゲル」(岩波文庫)-1 ドイツの教養主義者は実業が嫌いで、庶民のたくましい肉体がうとましい

 詩人トニオ・クレーゲル の半生と詩作に対する疑惑。1903年発表の中編に、行が開けられているところに勝手に数字を振って、サマリーをつくる。

1.トニオ14歳。学校の優等生ハンス・ハンゼンといっしょに帰る。トニオはシラー「ドン・カルロス」の話をし、ハンスは馬術の本に夢中で話はかみ合わない。でもハンスは「ドン・カルロス」を読むと約束し、いずれ如才ない批評をするだろう。自作の詩を笑われてばかりのトニオは秀才ハンスに圧倒され、孤独である。

2.トニオ16歳。インゲボルグ・ホルムに初恋をするが、女学校とのダンス(カドリール)で大失敗。愛から見放されている自分を見つける。
カドリーユ: 4組の男女のカップルがスクエア(四角)になって踊る歴史的ダンス

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3.トニオが成人したころ、家は破産し商会は解散する。遺産をもらったトニオはヨーロッパを放浪し、その間に書いた詩が評判を呼ぶ。その諧謔と苦悩が新しいとされたのだ。このころから官能に対する嫌悪、卑俗なものへの憎悪が強くなる。自分にあるのは滑稽と悲惨であると自覚する。

4.トニオ30歳を超えた頃。閨秀画家リザベタ・イワノヴナを訪問する(ドイツ人男性はスラブ系の女性とは恋愛にはならないのだろう)。「文学は天職ではなく呪い(のちに認識と創造苦が理由であるとわかる)だ」と愚痴をこぼす。

5.リザベタに旅に出ると告げる。

6.故郷の北の街に行き、13年ぶりに実家に帰る。そこは民衆図書館になっていた。ホテルを出ようとすると、国外逃亡者に間違われ拘束されそうになる。

7.船の中で「人はうじ虫」という青年とすれ違う。デンマークに到着。

8.デンマーク北端の島に滞在することにする。ドイツの旅行客が来て舞踏会を開いている。そこでハンスとインゲボルグが親しくしているのを見つける。彼らの生活と幸福に嫉妬し、自分の荒んだ冒険や病み衰えた精神と肉体に悔恨と郷愁を感じる。

9.リザベタへの手紙。俗人気質と生活への愛は指摘の通りに「僕」にある。「僕」は「一つの未だ生まれぬおぼろげな世界」を覗き込み形造ることを続けるだろう。

 

 なんとも荒涼とした「芸術家」の世界。トニオは詩人だが、リザベタのような画家がもつ純粋性が自分にはないのを恥じる。またハンスとインゲボルグの健康で幸福な世界から遮断されているのに孤独を感じる。旅はトニオの憂鬱を晴らす機会であったのだが、逆の結果になってしまった。この徒労ばかりの旅は行き先を間違っていたと思う。ヴェニスかローマ、あるいはギリシャに行けばよかったのに(中年から高年でヴェニスに行くとそれはそれで憂鬱と破滅に出あうことになるかもしれないが)。
 トニオの憂鬱は二通りだ。ひとつめ(4で書かれる)。創作そのものの苦しさであるが、それは呪いのようなものなので仕方がない。でも苦行の末に作ったものは資本主義の製品のように市場で評価されない。売り手である詩人が評価する価値を買い手が持たないから。そこで売れるような商品にすることは芸術ではありえない。すなわち永遠に詩人と詩は理解されないだろう。講演会などで話しても大衆のなかの誰がファンなのかがわからない。芸術家は理解されないまま孤独であるだろう。
(この論は19世紀末のドイツロマン派では有効だろう。なるほど100年も前の19世紀初頭では、詩や小説や音楽を鑑賞し批評する人は少数で、作り手と書き手の距離は近かった。そこでは作品の主題や技法は説明がなくても共有されている集団がいた。その代表がゲーテとシラー。でもその後の資本主義の隆盛で余暇を持つ人々が増え、暗黙の了解になっていた創作物を鑑賞する方法を知らない人が芸術集団に参入してきた。そこでは創作者からすると誤解や無知に基づく言説がでてくるし、あるいはつまらないと無視されることもある。創作者と消費者の間に大きな境ができ、交通ができなくなっている。芸術や学問を成立させる社会構造が変わったのだ。そこをトニオは無視したのか、故意に洩らしたかして、芸術の受け手・買い手を非難する。現在を否定して過去を憧れるという「保守」の立場にたつ。)
(そうすると、大衆しかいないアメリカでトニオの論が成り立つのかと疑問に思う。絵画・作曲・詩作・文芸を試みる芸術家はアメリカにもいたが、彼らはトニオのような分裂で煩悶することはない。トニオが期待するような高尚な鑑賞者はその地にはいないからだ。もともと無名で集団でいることにしか共通点のない大衆全体が芸術の消費者になることはない。なので、セグメンテーションとターゲティングに基づくマーケティング戦略アメリカの芸術家に求められる。実際に、文化産業と組んで成功した芸術家はたくさんいた。まあ、アドルノのようにトニオと同じ論で文化産業と大衆芸術を嫌うドイツ人はいるので、そこはもう彼らがいる社会の違いというしかない。)


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2023/05/18 トーマス・マン「トニオ・クレーゲル」(岩波文庫)-2 教養市民社会に「遅れてきた青年」トニオは苦悩して郷愁にふける 1903年に続く