2024/07/18 安丸良夫「神々の明治維新」(岩波新書)-1 新政府の扇動で国学者と神道家と民衆が仏寺だけでなく民俗信仰の対象を破壊した。 1979年の続き
辻達也「江戸時代を考える」(中公新書)によると、16世紀後半から列島に住み人たちの識字率が上がり、学習意欲がました。そのさいは儒学と仏教が教えられたが、2世紀もすると人びとの知的好奇心を満足させるものではなくなり、外来思想の輸入は途絶えていたから、新しい学問として国学と神道に興味が向かったようだ。神道の解説書を見ても、江戸時代後半からこの二つの学問が流行し、農村改革運動などと結びついたようだ。さらに同書によると、文化が庶民に解放され俗化する。その結果は、日本スゴイ論と中国から独立しようという意思(ナショナリズムではないので注意)が生まれた。唐好み(近代以降は洋風ハイカラ)から和好み、渡来もの礼賛から日本スゴイへの精神の変化は列島では何度も起きたわけだ。そうした精神の土壌ができたところで、幕府権力が弱まり維新勢力が伸長して権力の空白が起きた維新の前後で、日本文化と古い権威の破壊運動が起きた。
(フランス革命やロシア革命の民衆蜂起の際にも、似たような過去の文化遺産を破壊する活動がみられた。イギリスのピューリタン革命では都市民の娯楽を制限すること20年に及んだので、シェイクスピアなどの古典演劇の伝統が途絶えてしまった。ナチスはユダヤ人排斥といっしょにユダヤ人作曲家の作品演奏を停止させた。これら西洋の例では、文化破壊は一時的でのちに復活できた。でも日本の文化破壊と新思想の強制は日本人の精神を変えてしまった。それは明治政府の政策が80年近くの長期であり、数世代にわたって行われてしまったから。子供の時の刷り込みを直すよい方法はまずないのだ。)
神道国教主義の展開 ・・・ 廃仏毀釈を進める一方、神道の国教化が進む。まず新しい天皇像を作る。乗馬をし、牛乳を飲み、西洋料理を食べ、洋服を着る。その姿を見せつける。その政治的意味は下記参照。
多木浩二「天皇の肖像」(岩波新書)
異性神宮を明治4~5年に改革し、国営に準ずる組織が管理する。天皇が親拝して最高の神社であると示す。
暦の転換、風俗改良などを行うが、古い民間行事や習俗を迷信や呪術と抑圧し、神道式の生活習俗を国民に押し付けるものであった。(暦の改訂は旧暦で行っていた民俗的な祭礼の意味と価値をなくしてやら屋異様にさせる。かわりに、神道の祭礼を国民の祝日として押し付ける。)
当初は祭政一致の儀式を政府が行ったが、神祇官が縮小され教部省に格下げされ、復古式の祭はなくなり、祭と政は分離される。
宗教生活の改変 ・・・ 神仏分離は寺社や神社だけにとどまらない。国体神学に合致しない信仰は神道化が命じられた。祭神の取り換え、修験者や僧侶の還俗・帰農が起こり、氏神が整理され、社名が変更された。さらに民間信仰や民族行事が抑圧された。道祖神などが撤去され、若者組が禁止される。他に混浴、入れ墨などが禁止された。民衆の娯楽である祭礼、芝居、ばくち、踊りなども制限され、勤労と清貧が奨励された。これはすなわち神仏分離と廃仏毀釈は文明開化や富国強兵と表裏一体の政策である。地方支配を強化し、民衆生活を国家が監視・管理する啓蒙的・開明的専制主義なのである。
(その一環として乞食が取り締まられる。乞食になるのは不摂生や無計画で堕落した自己責任というわけだ。その考えは、明治の社会保障政策の基本的な考えである「恤救規則(じゅっきゅうきそく)」で「隣保相扶」につながる。大日本帝国が国民と棄民したのは、この時から始まっているわけだ。)
大教院体制から「信教の自由」へ ・・・ 教部局は神職と僧侶を雇って国体神学と仏教の啓蒙・国民教化を目的に各地で説教を行った。役所が動員したので盛況だったが、説教師の出自の違いで内容が非統一であった。真宗の盛んなところでは反対一揆も起きた。そのとき岩倉使節団が洋行していて、近代国家では「信教の自由」が認められていることを知る。列強からは日本国内のキリスト教弾圧に抗議があり、条約改正の条件に「信教の自由」が求められた。そのため、政府は廃仏毀釈のような民衆運動を抑制し、「信教の自由」を認めた。その結果、国体神道は宗教として機能しながら、政府は儀礼や習俗であると強弁した。その政策が集大成が1889年の教育勅語。
(この強弁は21世紀になっても使われる。)
(岩倉使節団の洋行後に政府の政策が変わる。そうすると、洋行団と留守政府の間に意見の齟齬があったし、のちの留守政府の政治家が排除されたことと関係があるのかもしれない。本書ではそこに触れていないので、隔靴痛痒の感。)
これまで日本文化の大きな変化は、教育勅語と帝国憲法発布の1890年以降にみてきたが、それより前から大規模な変化が起きていたことに驚く。それに伴い、江戸時代の列島の中の変化と維新政府の文化政策がつながった感じ。日本のダメなところの源流はとてつもなく深いところからあることにめまいがしそう。あいにくこの小著では俺が問題にしたいところがほとんど記載されていないので、強い刺激を受けたのに、知りたいことを知れない不満が残る。もっと勉強しよう。
俺が問題にしたいところ。
・江戸時代の国学と神道の普及状況
・廃仏毀釈を実行した人々の精神、その背景
・明治維新直後の百姓一揆と廃仏毀釈の関係(これまでは地租改正と徴兵制への反対とみなされてきたが、本書には廃仏毀釈反対の一揆が詳述されている) → 明治20年代の自由民権運動と廃仏毀釈反対運動との関係。自由民権運動を民主化運動とみなすのが多いのだが、政府による共同体破壊運動に対する抵抗という見方は可能か? 「秩父事件」のような自由民権運動とはいえない地方蜂起もそのように見ることは可能か?
・政府の国体思想教化政策の全体像
・維新の志士や元勲などの国体神道思想とのかかわり
・岩倉使節団と留守政府の廃仏毀釈政策の違い
・廃仏毀釈から教育勅語までの国体神道教化運動の歴史 など
廃仏毀釈のもう一つの集大成は靖国神社。以下のエントリーを参考に。
2022/07/04 大江志乃夫「靖国神社」(岩波新書) 1983年
2022/07/01 高橋哲哉「靖国問題」(ちくま新書)-1 2005年
2022/06/30 高橋哲哉「靖国問題」(ちくま新書)-2 2005年
廃仏毀釈と同時期の国体思想の現れが、「皇紀」。皇紀は中国の讖緯(しんい)思想による辛酉(しんゆう)革命(干支の60年が21回になるごとに革命が起きるという考え方:古事記が書かれたころは601年が辛酉の年)で、その1260年前に天皇が即位したと明治政府が明治5年1872年に決めた。そこから数えて2600年目が昭和15年1940年。その際に政府と軍部主導で記念式典が各地で行われた。
三浦佑之「古事記を読みなおす」(ちくま新書)-1 2010年
三浦佑之「古事記を読みなおす」(ちくま新書)-2 2010年
岡崎勝世「聖書vs世界史」(講談社現代新書)
「皇紀」をもとに、ネトウヨや国体思想の持ち主が日本称揚に使っているが、明治政府ですら公文書で使っていない紀年法(例えば勅語は元号表記)なので、全く根拠がない。
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