教科書ではほとんど触れられない明治政府の神仏分離と廃仏毀釈は巨大な転換であった。政権がなくなり他国との交易が始まるときに不安と弱さを払しょくする代償なのである。自分の関心では、19世紀前半の古式神道の流行からの帰結であり、のちの国家神道や国体イデオロギーの始まりであることで重要。さらに靖国神社のはじまりが1865(慶応元)年、長州藩の隊士らが丘陵地を開削してつくった奇兵隊士らの「招魂場」にあるということにもつながる。また廃仏毀釈では、政府の命令にのっかって人々が進んで神社仏閣の破壊に参与した。明治政府の全体主義運動の始まりとして注目しないといけないできごと。
はじめに ・・・ 神仏分離と廃仏毀釈は、王政復古の大号令の少しあとの1868年3月13日の布告が最初らしい。新政府誕生にあたり水戸学や復古神道の学者がイデオローグとして採用された。廃仏毀釈も国学者玉松操の意見に基づく。これは新政府がキリスト教への不安と恐怖を持っていたため。(日本人の外国人恐怖もあるが、アヘン戦争などの西洋による中国やアジア侵略への恐怖が理由なのだろう。多くの列島居住民は地域ごとの民間信仰をもっていたので、ナショナリズムが統合しにくい。そこで信仰を皇族と国家に集約する仕組みをつくったのだろう)。ここでいう神とは神道の神ではなく、皇族と国家の功臣のこと。仏とは仏教のそれをいうのではなく国家によって権威づけられない神仏すべて(なので民間信仰の神や外来宗教の神を含む)。なので民間信仰・民族信仰が抑圧された(一揆、若者組、夜這い、乞食、民俗行事など)。国家によって有用と無用が線引きされ、無用なもの・ことは破棄された。神仏分離と廃仏毀釈は指導者地方官をまきこむ国家運動になったが、欧米風近代国家の樹立に合わないことになる。そこで国家によって教育が行われた。廃仏毀釈から半世紀もすると、新しい冠婚葬祭などの儀式が生まれたが、国家の教育やメディアの啓発で宗教行為と思わないようになった。
〈参考エントリー〉
2022/07/04 大江志乃夫「靖国神社」(岩波新書) 1983年
2022/07/01 高橋哲哉「靖国問題」(ちくま新書)-1 2005年
宮田登「冠婚葬祭」(岩波新書) 1999年
斎藤美奈子「冠婚葬祭のひみつ」(岩波新書) 2006年
日本人の民間信仰は、牧田茂「日本人の一生」(講談社学術文庫)がわかりやすいが、てもとにない。
幕藩制と宗教 ・・・ 中世では宗教集団の活動は放置されていたが、集権国家を求める運動が始まると、宗教活動が弾圧された。よそ者が来て神秘や怪異で人を惑わし、人を集める行為もする反秩序・反既存権力の宗教。たとえば一向宗とキリスト教。これらは大名や藩遺骸に忠誠を示し、身分制に対抗するから。この時代から、権力者を神格化する行為が始まる。信長、秀吉など。古代から中世の御霊信仰から近世の権力者信仰に代わっていく。封建制と身分制が不安定になると(貨幣経済の普及で武士が零落、外圧)、その原因を宗教活動による民心の乱れとみるようになる。国学や復古神道など。彼らは多くの列島民が信仰している仏教も批判した。そして祭祀による人心統合が必要と訴えた。19世紀前半には国学の影響を受けた水戸藩や長州藩で寺院整理や民間信仰施設の破壊が行われた。
発端 ・・・ 廃仏毀釈の布告前の状況。新政府が樹立すると、国学者神道家が登用され、神祇官(じんぎかん)が作られ太政官の上の役職になる。そこで神道国教主義、祭政一致の政策が作られる。国難受難者の魂鎮の招魂社(元は長州藩由来)が全国に作られ、神だけでなく武将を祀る場所になる(のちに東京招魂社から靖国神社となる)。宮中祭祀が仏教式から神道式になる。天皇が宮中から切り離され、国体思想・神道思想で教育される。神仏分離令が発布され、京都などで寺社破壊行為が行われる。仏教集団は怖れをなし、政府に翼賛する。
(神道国教主義が急進的になったのは、天皇の権威と権力が国民に浸透していないこと。キリスト教が不況を開始したこと、それへの弾圧が西欧諸国に批判されたこと。国の命令に関係なく人が集まることに恐怖したこと。江戸幕府と違って新政府は百姓一揆を徹底的に弾圧したが、その背景には恐怖があった。)
(この章ではほとんど書かれないが、すでに「国民」には神道思想が広まり、廃仏毀釈の期待が高まる。その経緯は不明。デマや陰謀論などで大衆運動が起こっているかのよう。)
廃仏毀釈の展開 ・・・ 1867年慶応3年から1871年明治4年にかけての状況。実際に行われたところとして津和野、壱岐、佐渡、美濃苗木、富山、松本などを見る。成功したところは、新政府の権力が弱く朝廷権力を振りかざし、地元に国学者や神道家の勢力があり、僻遠で外部が介入しずらいところ。地元の真宗が抵抗すると失敗する例が多かった。廃仏毀釈は仏寺の破壊のみならず、民間・民俗の信仰対象(庚申塚など)までに至る場合がある。僧侶や家族は還俗させられ、葬祭が神式に改めさせられた。
(しかし、時間が経つと仏式の葬祭や民間信仰は復活し、絶滅できなかった。)
廃仏毀釈で仏寺が破壊されたり、収蔵品が埋められたりするのは、どこでもあったよう。石仏などは割られたり、表面を削ったり、首を斬ったり、顔をなくしたりした。これは神を象徴的に殺しているわけ。他人が信仰している表徴を破壊することで、その信者や共同体を侮辱している。そういうのが国学や国体神学を信奉するものによって行われた。
(のちに日本が周辺諸国を植民地にしたとき、先住民が信仰する施設を壊して神社を建てた。これも広義の廃仏毀釈にあたるだろう。皇民教育や植民地支配のやり方の最初は明治初年前後の廃仏毀釈に起源があるのではないか。)
あと倒幕運動にかかわり明治政府の重臣になった人々がどのくらい国体神道にかかわっていたのか。長州藩出身者はどうやら強い信奉者であったもよう。木戸孝允とか山形有朋とか。薩摩や土佐や越前の藩士らは? 幕府の中にも追従者がいたのか(たとえば勝海舟は国体神道をどう見ていたのかなど)。これまでの歴史書では彼らは開明派であり合理的な考えをするものとして描かれてきたが、どうやらその印象は訂正しなければならないようだ。
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2024/07/16 安丸良夫「神々の明治維新」(岩波新書)-2 新政府は民間信仰と民俗習俗を抑圧し、神道行事を人びとに押し付けた。廃仏毀釈の先には教育勅語と靖国神社がある。 1979年に続く