odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

菅野覚明「神道の逆襲」(講談社現代新書)-1 日本人は神のことを考えてきたが、外来思想の言葉に頼らないと言語化できなかった。

 神道は体系化されていないので、西洋の学問を勉強している者からすると、荒唐無稽で幼稚だと蔑まれてきた。そうかもしれないけど(は評者の私見)、神道をみることで日本人が神をどのように考えてきたか、その考えを海外由来の思想とどのように突き合わせてきたかをみる。日本人には哲学はないといわれるが、真剣に考えてこなかったわけではない。

神さまがやってきた ・・・ 総論。列島に住む人はどのように神を考え、接してきたか。神は突然どこからかやってくる「お客様」で、人びとはしっかり応対して帰っていただくものだった。神とともにいて接待して神は機嫌よく帰ってくれることが大事。というのは、神がやってくる予兆はあって「たたり(自然災害、疫病その他)」として現れ、来てもらうために儀式が必要だった(このとき神の名を間違えると神はやってこないし、たたりは悪くなる。祝詞で言い間違えができない理由)。接待は一時的なお祭りなので、使用品は一度限りの使い捨てが原則。このように神が来ることは楽しみ・期待であるが、日常とかけ離れた異物でもあるので危険や迷惑でもある。なので神は「もてなしつつ待つ」。そして列島以外の国や民族のような人格神・創造神でもない。身の毛のよだつような異形なもの(可畏き・かしこきと形容される)なのである。

神道教説の発生 ・・・ 神道は体系化されていないとされるが、伊勢神宮が平安から鎌倉期にかけて体系書を作った。記紀(とくに日本書紀)の記述を補う形で書かれている。主要な概念は、アマテラスとトヨウケオオミカミの二神が大事であり、天孫降臨前に「隠れたる契り(幽契)」がこの二神の間にあり、日を司る都の神宮と月を司る伊勢神宮の二元論になっている。神道ではアマテラスから天皇の系譜が重要であり、記紀(とくに書紀)の記述と一致していなければならない。なので、このような追加が行われたと考えられる。

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神国日本 ・・・ 「神国」は書紀の新羅征伐からあるが、武や他国に対する優位性を示しているわけではない。「神皇正統記」を例に検討すると、神国は神を祀る国のいいであり、日本と付き合うなら祀りを踏まえてほしいという意味である。神国であるというのは、この国が神-天皇-人の特異な内部構造を持っていることを示していて、その概念は中国のように王朝が交代しないことと、諸外国との外交とアイデンティティを確立する戦略なのである。神道の「神」は創造神でも人格神でも道徳の判断基準でもない。
(というわけで、この内部構造が変わらないことが重要なことになる。なるほど戦国大名以下は天皇に手をつけなかったわけだ。「神国」を武の国、神に守護されている国と言い出したのは江戸の国学者。神概念を西洋化したのも江戸の国学者。たぶん平田篤胤あたりから。)

正直の頭に神宿る ・・・ 正直(中世はせいちょくと読んだ)は重要な徳目。すなわち、神は不意に現れて何か要求する(要求は不可解で、言語化されていないし、都度代わる)のを無条件に受け入れ、神の言うとおりにすること。それを実行すると現世で成功する(しかし失敗することも多数ある)。過去の成功例から類推して、儀式や造作、ふるまい、供物、清浄、心の持ち方などがマニュアル化されてきた。形式を整えるだけでなく、神の要求を受け入れるには無分別であることが重要。しかし神の要求を受け入れることは、日常から浮き上がり、異質なものとみなされる。その先に神との同一化、天地一体などが訪れる。
(神の要求を受け入れるために、村人の中の選ばれた者に清浄を求めるのはこういう理由なのか。 大江健三郎「青年の汚名」(文春文庫) 。巫女が処女であることや、こどもが祭りの主役になるというのも「正直」を体現しているのは日常ではない者たちであるという考えに由来するのだろう。牧田茂「日本人の一生」(講談社学術文庫)にあるさまざまな習俗も神道で説明できそう。)

我祭る、ゆえに我あり ・・・ 以上の伊勢神道では根源を探る要素がなかった。中世にでた吉田神道形而上学的な体系化をめざしていた。天照大神よりも国常立尊を優先し、これを万物の根源とした。祭祀(修行のような意味も持つ)を行うことで、神と合一化できるとするもの。仏教や易の影響が大きい。
(中世の神道は仏教や儒教の体系や用語を借りて正統化しようとしたが、吉田神道はその例なのだろう。丸山真男記紀牽強付会な読解だとしてばっさり切り捨てる。)

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 「真剣に考えてこなかったわけではない」とはいうものの、思想の言語化・概念化をするには日本語の語彙はとても乏しいのか、外国由来の概念に頼らないと精緻化できない。ときには外国由来の概念や体系をそのまま利用したり部分的に採用したりすることになる。こういう指摘はおもに明治以降の洋楽受容でずっと言われてきたことだが、どうやらこの列島に住む人が言語を表記するようになってからずっとそうだったのだ。

 

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2024/07/26 菅野覚明「神道の逆襲」(講談社現代新書)-2 過去の人が一所懸命考えた神道の原理や説明は忘れられて、日常の所作と道徳だけが日本人に定着している 2001年に続く