著者はドスト氏の研究家で、何冊も研究書を出している人。本書ではドスト氏が心の病、病気の人間、奇人変人など関心をもっていたことに焦点を当てている。これまではおもなキャラを知的で論理的な人間としてみることが多かったが、そうではない、病的で受動的で観念に降伏した人間なのだという。そういう例をさまざまな小説に見出す。そのいちいちでドスト氏の作品を思い出せるので、やはりできる限りの作品を先に読んでおいたのはよかった。
第1章 心の病いを尊重する作家 ・・・ ドスト氏の犯罪者は計画的理知的功利的に実行するのではない。何かに圧倒されたり観念に感動を受けて降伏して実行するのだ。その点で犯罪者は病気なのであり、主体的個ではない。むしろ誰かにひれ伏し自分を委ねたいという願望がある。孤絶感を持っている人ほどそう。なのでドスト氏は醜悪な異物的な人間であっても排除してはならないと考える。
第2章 治らない心配性―妻アンナへの手紙 ・・・ ドスト氏自身も「奇妙な人(妻アンナの手紙)」だった。被害妄想、強迫的心配性、絶えまない幻想、てんかん、猜疑心。現実の不幸には耐えられるのに、起きていないことをいつまでも心配し不安になる。「中年男性が若い女に求婚、結婚する」モチーフは回生願望の少女好みであり、女の支配願望と裏表の女に支配されたいマゾヒズム。
(PKDのSFにでてくる崩壊する現実感覚は想像力かと思ったが彼の神経症の表れだと知って驚いた。同じことがドスト氏にもあるのだね。)
第3章 犠牲者のいる光景―加虐と被虐を通しての愛 ・・・ 抵抗しない受難者で、加虐者を理解しようとする人たち。彼らを加虐することに楽しむを持つ人たち。被虐と加虐を通した愛にドスト氏は興味関心をもっていた。兄弟愛を理念とする、新しいキリスト教の社会主義がドスト氏の理想。それは理論で成り立つのではなく、感情や感覚で一気に生まれるもの。
(この後の「悪霊」の分析が見事。加虐被虐でしか愛を感じない「ふりをする」、仮面の人スタヴローギンはなにもしない。世界を変える観念を期待している被虐の人キリーロフ、シャーオフ、ピョートルにスタヴローギンは呪文のような観念を吹き込んで彼らを行動させる。しかしスタヴローギン自身は「いっさいが自分に関係ない」と生ける死者のようになる。「悪霊」の主要キャラの説明では一番しっくりした。なお、被虐加虐への関心には、去勢派や鞭身派のような自己への懲罰と苦痛で救済されようとするロシア正教の異端カルトがあることも想起してよいかも。)
(仮面をかぶった三島由紀夫はスタヴローギンに似ているという指摘もおもしろい。)
第4章 なりすます才能と被害妄想―『貧しい人たち』と『分身』の統合失調症 ・・・ ドスト氏の小説には、不安・幻覚・自己崩壊感覚・被害妄想・迫害妄想・新生感・誇大妄想・神経過敏などがよく出てくるが、これは統合失調症に似ている。実際ドスト氏は幻覚作用のある睡眠剤を常用していた。ドスト氏にはこの世の現実より夢や幻覚のほうが真実性があると思っていて、仮想現実を愛好していた。実例を章題の二つに見る。
(1860年代、社会主義は政治的プログラムにあるとされていたが、人工楽園「水晶宮」のためにレンガを運ぶのは願い下げであった。実例は「地下生活者の手記」「罪と罰」「未成年」。政治的社会主義の計画性と合理主義は受け入れられないので。「鰐」はチェルヌイシェフスキー嘲笑が意図。皇帝への信頼は終生揺らぎなかった、家族的相互扶助社会の理念に皇帝の恩恵はかなっているから。ここらは自分の読書で読み取れなかったこと。啓発されました。)
第5章 博愛主義者にして反ユダヤ主義者―社会問題の視覚的解決 ・・・ ドスト氏は人の好悪が激しく(たいていは思い込みや決めつけに由来)、その代償で万人の友愛を夢見る。その統合のシンボルがキリストで、キリストを中心にした宗教的ユートピアを考えていた(キリスト教社会主義は1840年代にロシアの青年運動であった)。彼は知的批判力は弱く、光景・視覚イメージで真実を認識する人だった。なので独善的であり、時代の社会通念に制約されそこに妄想や信念が加わる。ユートピアや社会主義実現のために、合理的に考え、社会運動することは嫌いだった。彼は政治的社会主義は嫌いであるが、それは現実主義や合理主義を受け入れられないため。ドスト氏は神との接触が保たれる世界であることが大事で、合理主義はそれを切断する。神との接触を断たれた人たちは地下室にこもる(「地下室の手記」「罪と罰」)。しだいに地下生活におかれた「死産者」であることに喜びを覚え倒錯にふける。変質的なできそこない(加虐被虐に耽る人など)に関心を持つ。
(ドスト氏の反ユダヤ主義はレイシストのそれであるというより、上のようなナショナリスト(むしろパトリオット)の服を着たユートピアンが物事を考えているとき、社会通念になっている反ユダヤ主義を使ってしまったという程度のもの。というのが著者のみたて。)
(ドスト氏は反ユダヤ主義よりロシアは偉大というスラブ主義の人。プーシキン講演はロシアの選民思想宣言。そこにいあわせた右翼も左翼もドスト氏の予言者風の講演に熱狂した。)
(ドスト氏はロシアから神が失われていると危機と危惧をもっていて、彼から見るとユダヤ人は神を持つ民族であると評価したのだった。でもアーレント「全体主義の起源」によると、レイシストは被差別民族が民族的特長を供えていると羨望するのであった。)
おもしろかった。
自分はいままでドスト氏を合理的にものを考え、理性的に神を考える人であるかと思っていた。小説のドスト氏と評論のドスト氏を切断していた。合理的理性的でないところはドスト氏のうっかりや筆のすべりのように考えていた。被虐加虐の執拗な記述や虐げられた人々の悲惨な行動、夢や幻覚をみての心かわりなどは重要なことではないとうっちゃっていた。
でもこの読み達者の見方によると、小説と評論は連続しているし、自分が捨てたところにこそドスト氏の重要なところがあることになる。健康な人の安定した意識が小説や評論を書いたのではなく、統合失調症やアスペルガー症候群(いまはこの語は使わないで高機能自閉症スペクトラムと呼ぶが、本書の記述を使う)その他の神経症を持っている人がロシアの社会通念と独自のユートピア思想に強く引っ張られて書いていたのだということになる。あまりドスト氏を論じる評論は読んでいないが、「作家の日記」や「夏象冬記」などのエッセイ、評論まで言及して、かつ小説と評論の連続性を指摘したものはこれが初めて。とても刺激的。どうしよう、五大長編以外はもう読まなくてもいいかと思っていたが、これを読んだら読み直しをいないといけないではないか。それも自分がつまらないと思った小説や評論などをとくに。
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