odd_hatchの読書ノート

エントリーは3400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2025/9/26

加賀乙彦「ドストエフスキイ」(中公新書) 精神科医の読みでは、ドストエフスキー理解の鍵は癲癇にある、とのこと。

 著者は精神科医で小説家。若いときからドストエフスキーを読んできたが、死刑囚との会話を重ね犯罪者の心理を研究したことと、病跡学の知見を得たことで、ドストエフスキーを解読する手がかりを得た。そこで、1973年に本書にまとめた。

他者と自分の発見 ・・・ ドストエフスキーののっぴきならぬ体験は流刑と癲癇。初期作品では「死の家の記録」と「地下生活者の手記」に注目。この二作は対処的。前者は外部の観察で自由を求めて制限されて文体はポリフォニー。後者は内部の分析で自ら自由を拘束し一人称の独白。ジイドがいうような後期長編群を解く鍵にはならない。鍵は「白痴」にある。

死刑囚体験について ・・・ 予告された死が人間の体験する最大の苦痛であることを示すのが、ムイシュキンの語り。時間の異常な濃縮と過度に鋭敏で正確な知覚が現れ、死との対決になる。ドラッグ、アルコールも現在が異常に拡大する体験になるが、怠惰で緊張に欠くので死刑囚体験とは異なる。ムイシュキンは死刑囚体験を持たないが、意識拡大喪失発作という死に似た現象を癲癇発作で体現しているので、死刑囚体験に共感する。予告された死を目前にするという点で、イッポリートは重要。彼は嘆きから永世・神を信じるという願いと自殺への決意という矛盾を抱える。リーザ(@カラマーゾフの兄弟)も、他人の善意を嘲笑しながら他人への愛と関心を持つ点でイッポリートに似ている。ムイシュキンはイッポリートの理解者。
(自分はあまり関心を持たなかった/捉えそこなったキャラの解説なので、参考になる。)

ムイシュキンの不安と恍惚 ・・・ ムイシュキンは2回癲癇発作を起こすが、いずれも物語の転換点になった。その前後は、癲癇発作をよく描写している。癲癇は肉体からの呼びかけ。前兆(アウラ)―恍惚体験―喪失感覚。喪失感覚は向き臭の希釈された時間(不気味な永遠性)と一致する。感情麻痺と退行。
(以前から癲癇発作に意味づけするなという論者もいるが、精神科医の著者は反対する。深い人間性の洞察がある部分であるとのこと。)

癲癇者ドストエフスキイ ・・・ ドスト氏自身の癲癇を手紙から検討する。この点をフロイトが父親殺しという観点で見ているので検討する。フロイトによると、父親殺しの願望が自己懲罰になった、幸福を破壊する衝動になった、とする。これを精神科医からみると、発作前の穏やかな時期は愛と生命力、発作後の抑うつ期は嫉妬と賭博とみることができる。前者は現実への密着であり、後者は現実からの逃避。50歳を過ぎからドスト氏が賭博癖を克服できたのは彼自身の生命力の枯渇のためではないか(癲癇のほかに肺気腫があった)。
(なるほど中村健之介は「永遠のドストエフスキー中公新書で、ドスト氏は現実で汗をかくのは拒むが、ユートピア社会主義を幻視するのを好んだという。それらの行動性向はここからも説明できそう。)

作者と分身 ・・・ ドスト氏の癲癇性格による多面性を検討。造形したキャラはバルザックディケンズの影響がみられる。キャラにはラスコーリニコフ型とスヴィドリガイロフ型に分けられる。
(女性キャラの分類がないのは女性の重要性をみないため? 著者はロシアの近現代史をみないし、ロシア正教をみないし、資本主義と近代化から生まれたモッブと民族差別をみない。著者はスラブ主義がわからないというが、あげた諸点を検討すると見えてくるよ。)

夢と幻覚の文学 ・・・ ドスト氏は夢と幻覚を現実と同じくらいに正確に、精密に、確固としたものと描いた。後期長編から夢と幻覚の例を並べる。
犯罪者と子供たち ・・・ ドスト氏は犯罪者と子供たちに関心をもっていた。後期長編から具体例を並べる。
(この二つの章は失速。事例を並べるだけで、洞察もひらめきもない。観察や分析も中途半端で、閃きの先に進めるところで「洞察」「理解」などで話を終えてしまう。)

 

 著者は、ドストエフスキー理解のカギは癲癇にあるというテーゼで小説を読んでいった。精神科医でもある著者が専門知識を使って読むので、ムイシュキンやドスト氏自身の分析は見事(あれ、キリーロフとスメルジャコフはどうした?)。でもテーゼにこだわったので、関係しないところを把握し損ねた。最後のふたつの章で顕著。
 作家のこだわりであるとしても、埴谷雄高にしろ加賀乙彦にしろ、こだわりが強いので、読み方が狭くなってしまった。ロシアの近代化は日本に似ているので親近感を持って、日本の常識で読もうとしてしまいがちだが、ロシアの特殊性、日本の特殊性に意識的でないと、読みそこなうところは多いよ。

 以下は独り言。
 20世紀のドスト氏の読み方は自意識と行為の矛盾、自由が不自由性を発見する、というものだったらしい。起源はどうやらジイドみたい(新潮文庫のジイド「ドストエフスキイ」は高値なので手が出ないので確認できない)。それは昭和時代にでたドスト氏の評論集を読むとよくわかる。
2019/11/19 河出文芸読本「ドストエーフスキイ」(河出書房)-1 1976年
2019/11/18 河出文芸読本「ドストエーフスキイ」(河出書房)-2 1976年
 俺からすると、「自意識」は近代化の産物。資本主義の競争と脱落から生じてくる意識の形態で、関心が自己に向かった状態。そうすると自意識をアプリオリに「有る」として考えてもうまい考えは出てこなくて、資本主義と国家の分析をしないとダメなのじゃない。自由が不自由を生むというのはよくある状態。下記を参照。
苫野一徳「『自由』はいかに可能か 社会構想のための哲学」( NHKブックス)
 そこで自由と不自由の矛盾で思考停止するのではなく、不自由を選択しない自由を考えるべきでしょう。上の本が参考になる。俺からすると、自由は正義と他者の複数性とセットになっている。そこを考えれば、自由が不自由に転化したり、自由を捨てて進んで服従したりすることから免れることができる。「大審問官」は難解ではあるけれども、「大審問官」の騙りから逃れる道はあります。

 

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2024/08/26 加賀乙彦「小説家が読むドストエフスキー」(集英社文庫) ドスト氏の小説は精神病質人格の博覧会。とくに癲癇に注目しよう。 2006年に続く