約20年ぶりの再読。前回の初読ではあれほど感動したのが、今回は困惑で終わってしまった。発見するところも少なく、小説に負けてしまった。そりゃ、登場するキャラの会話を楽しんだし、とんちんかんなユーモアも堪能したし、大審問官のような議論に頭をひねったりもしたのだが、「罪と罰」を読んだ時の圧倒された感じがついに訪れることがなかった。それぞれの編のサマリーにはさんだように、かつてどこかで読んできたことが繰り返されているように思えたのだ。あまりに浅い読書になってしまった。感想を書く意欲を失った。それでも折に触れて「カラマーゾフの兄弟」のことを考えていたら、メモにしておきたいようなことができた。
・ドストエフスキーのいたロシアは19世紀の半ばに劇的な変動を迎えた。社会や政治の変化をドスト氏は危機ととらえる。どのような点を危機と考えたかというと、性急な近代化・西洋化、農奴制廃止による階級制の崩壊、大衆化、ロシア正教のカソリック化など。ドスト氏はこのような危機に対して、内には宗教国家の摂理り、外には汎スラブ主義で対応することを提唱する。ヨーロッパの資本主義的世界システムが周辺や辺境を植民地化して拡大しているので、ロシアはヨーロッパを拒否してロシアらしさを発揮しなければならないというのだ。ロシアらしあとはロシア教会であり、大衆化していない土壌に根を持っている民衆なのである。
・しかしそのロシアは危機にある。イワンは現在の危機を乗り越えるためには、宗教と国家が一体化するべき、むしろ宗教が国家になるべきだという強い主張をもっている(第1部第2編「場違いな会合」)。通常イワンは無神論者とされるのであるが、全く納得できない。彼は神の存在を疑っているのではなく、神が作った世界が狂っていることに憤っているのだ。
・とくにパンの分配(すなわち富の再分配)について。パンはロシアの民衆に正しく配られているか。そうではないだろうとイワンはいう。イワンの問いは以下。
「さあ、答えてみろ。いいか、かりにおまえが、自分の手で人間の運命という建物を建てるとする。最終的に人々を幸せにし、ついには平和と平安を与えるのが目的だ。ところがそのためには、まだほんのちっぽけな子を何がなんでも、そう、あの、小さなこぶしで自分の胸を叩いていた女の子でもいい、その子を苦しめなければならない。そして、その子の無償の涙のうえにこの建物の礎を築くことになるとする。で、おまえはそうした条件のもとで、その建物の建築家になることに同意するのか、言ってみろ、うそはつくな!(カラマーゾフの兄弟 2」光文社古典文庫P248」
「大審問官」を参照すると、ローマ教会はまさに「幼女の無償の涙のうえに」礎を築いた建物である。そこには無数の人々の「パンをよこせ」の要求が来る。人間が作った教会は無からパンを作ることはできない。なので、人びとから徴発してパンを配布する。そのさいにより貧しい人、より困っている人、より弱っている人からパンを奪うのだ。この人たちは「小さなこぶしで自分の胸を叩いて」嘆いている。教会は残っていなければならないので、イワンの問いにYesと答える。その理由が「大審問官」で延々と語られる。
・そういう見方にすると、「大審問官」を単体で読んで評論することはとても危険(というかドスト氏のいいたいことを落っことしてしまう)。大審問官は中世スペインに現れたあのお方(イエスとは名指さない)を弾劾する話。弾劾の根拠はローマ教会の理屈に基づいているのは、そのエントリーで見た通り。ローマ教会であるカソリックの理屈では現代に現れたイエスを見つけられない。むしろ大衆扇動で反教会運動をする者は積極的に排除するだろうということだ。
〈参考エントリー〉 大審問官が群衆を恐れる心理は19世紀末の社会学者の意見と同じ。権力は自発的に人が集まることを嫌う。自発的に集まる人たちが危険であるかのように宣伝するために、権力は人びとがバカで軽挙妄動するといい、彼らの自由を奪う。江川卓が「ドストエフスキー」岩波新書でいうように、ラスコーリニコフの「超人と凡人」論は大審問官とローマ教会で実現され、そこで究極の支配形態をとるのだ。
ギュスターヴ・ル・ボン「群衆心理」(講談社学術文庫) 1895年
・イワンの問いに対して、ロシアの教会はそうではないと対抗するのが、ゾシマの一代記になる。彼がいる修道院では民衆もエリートも等しく同じ待遇を受ける。多少の異論は許される。機会と結果の平等はある程度保障された社会で、マイノリティが苦痛を受けることはない。でもゾシマは虐げられた人を救おうとして果たせず、修道院でも修道士に影響力はあっても俗世界の人には知られていない。ではどうするか。
・イワンの問いにアリョーシャはNoと答えるのだが、実際に「小さなこぶしで自分の胸を叩いてい」る人たちにどうやってパンを配ればよいかはわからない。その実践の手探りが、イリューシャと中心とする子供たちとの宗教的共同体なのだろう。
(自分のサマリーを読み返してみれば、ゾシマの語る「一本の葱」も資源の分配をめぐる問いだった。またスメルジャコフがイリューシャの愛犬をいじめるために一本の針を仕込んだのもパンだった。全編を通じて、イワンの問いのまわりに、食べることのメタファーがちりばめられているのだった。ドスト氏の仕掛けにびっくりした。)
・ゾシマのやりかたは不十分。ではどうするかというのが、アリョーシャの至高体験。大地投身をして世界と自我が一体化する神秘体験をして生まれ変わることがドスト氏の考えるロシアらしさの表れである。
・一人が改心しても世界は変わらないので、アリョーシャは修道院をでて俗世界に降りていかねばならない。それを主題にするのが「カラマーゾフの兄弟」の続編になるのだろう。
・「罪と罰」以降のドスト氏のテーマは、ロシアで人が生きやすい社会を作るためにどうするかを考えること。
〈参考エントリー〉
フョードル・ドストエフスキー「地下室の手記」(光文社古典新訳文庫)-7
最初に考えたことは、人間と神の掟を踏み越えて新しい人に生まれ変わることだった。ラスコーリニコフ、ムイシュキン、スタヴローギンらのキャラで検討してきた。でもどうしても彼らではうまくいかない。次の「カラマーゾフの兄弟」でとった戦略は、これまでひとりのキャラにまとめてきた特長を分割したことだった。上の3人にロシアらしさを統合しようとすると、分裂してしまうのだ。そこで、犯罪的人間・政治的人間・性的人間に分割して、それぞれにキャラを割り振る。そうすると、ひとりのキャラでは背負切れない思想も破綻することなくかけるだろう。そういう意図で出てきたのが、ミーチャ・イワン・アリョーシャになる。もちろんドスト氏のことで、ひとつの類型だけに収まる単純なキャラにはならないで、どのキャラにも犯罪と政治と性の問題が反映されている。そのうえ、この類型に対するアンチキャラとしてフョードルとスメルジャコフとゾシマを配置するという周到な仕掛けもしている。ミーチャもイワンもアリョーシャも三人のアンチキャラと対抗することで、自我と思想を深めていく。
・続編ではアンチキャラを失った三人の兄弟が、別の類型に転換していく様を見ることになるだろう。ミーチャが政治に、イワンが性に、アリョーシャが犯罪に傾倒していくさまがみられるはず。
(とくにアリョーシャがどうなるか。修道僧暮らしが長く還俗したばかりの少年は上の問題はわかってはいるが、自分ごととして検討したわけではない。しかし父の死から数か月の間に「もんだい」がいくつも降りかかる。足が悪いリーザとの結婚の約束を履行できるのか。彼女はアリョーシャを翻弄するだろうが、アリョーシャは家庭を作れるのか。というのは、彼の周りには少年たちが集まり、コーリャを中心にした「教団」「秘密結社」が作られそうな勢い。少年たちというホモソーシャルで群衆心理に飲み込まれやすい集団はきちんと機能するのか。「続編」で構想される皇帝殺しはここで検討されるのではないか。そのとき、コーリャが実行犯として官憲に追われることになった時、アリョーシャは彼を守るのか告発するのか。それこそ若いゾシマが苦しんだ問題をアリョーシャは抱えるのではないか。)
(修道僧ラキーチンは、カラマーゾフ家には女好き、神がかり、金儲けの特長があると指摘した。この3つの類型にわけてもよさそう。でもそうすると、父殺し(と続編での皇帝暗殺)の問題がぼけてしまいそうなので、上のように分けてみた。元は大江健三郎が20代半ばだったころに使った概念。その発想のもとはサルトルなのかも。)
フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」(新潮文庫)→ https://amzn.to/3SEP249 https://amzn.to/3SC1OQW https://amzn.to/3SEYK6x
(光文社古典新訳文庫)→ https://amzn.to/3SExViP https://amzn.to/3ysORSy https://amzn.to/3ysh5Nk https://amzn.to/3SEAPEt https://amzn.to/3SCwYHL
(岩波文庫)→ https://amzn.to/3SDORWZ https://amzn.to/46yo6c8 https://amzn.to/3Yy0vX9 https://amzn.to/3yiZmYO