2024/09/09 フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 4」(光文社古典新訳文庫)第4部第12編「誤審」(承前) 否定する人=ヨーロッパは破滅し、肯定する人=ロシアは苦痛を受け入れる。 1880年の続き
裁判が終わってから5日目。町の人々の関心は薄れたかもしれないが、「カラマーゾフの兄弟」たちはそのあとを生きなければならない。
エピローグ ・・・ アリョーシャは有罪確定後に、関係者たちをめぐり歩く。イワンは証言のあと幻覚症で寝込んでいる(のちにアリョーシャは「死の床」にあるという)。介抱するのはカテリーナ。彼女はドミートリーへの愛をもっているが、今は別の人を愛している(のはいいが、相手のイワンはリーザを愛しているので、13年後にカテリーナはリーザとの三角関係に悩むことになるのか)。ドミートリーへの愛が覚めたのは彼がグルーシェニカにくびったけになったから。この二人を脱走させるのは許せないという。アリョーシャにしても落ち着かせられなかったので、一度兄ドミートリーに会ってくれというのがせいいっぱい。そのドミートリーは熱病で伏せた後回復し、「恐ろしく考え込むようになった」(ラスコーリニコフの体験@罪と罰第2部やエピローグと同じ過程を経ている)。ドミートリーがいうには「イワンがだれよりも抜きんでている。生きていくのはやつで、俺たちじゃない」。続編で兄弟たちのうち最後まで残るのはイワン(ドスト氏の小説では予言はいつも当たる)。一時期、ドミートリーは流刑されるのを受け入れられたが、判決が出ると番兵が貴様よばわりするようになり、その恥辱に耐えられない。なので、脱走してアメリカに渡り、英語をマスターしてアメリカ市民としてロシアに帰ると考えている。その直前には、畑を耕して働き始めるとグルーシェニカの夢をそのままいうなど一貫性がない(アメリカに行く、そこで新しい人生を始めるという考えはスヴィドリガイロフ@罪と罰の繰り返し)。彼は、自分で自分を裁き、逃げた先で罪の許しを求めて祈るという。どうもドミートリーの言葉は軽く聞こえてしまうなあ。このあとカテリーナがきてドミートリーに本心を打ち明ける。そこにグルーシェニカがやってきて、カテリーナは「私を許してください」と申し出るが、グルーシェニカは受け入れない(ということは、13年後にドミートリーがロシアに帰ってきたとき、カテリーナとグルーシェニカの険悪な気分が再燃してしまうことになるのか。あーあ)
その日はイリューシャの葬儀の日。すでにコーリャ以下の子供たちが集まっていて、悲嘆にくれる一家を慰めたり、葬儀を手伝ったり。良い子のイリューシャの死は一家にはひどい心痛を与えたようで、皆嘆き泣いている。葬儀を終えたアリョーシャと子供たちは道のはずれの大きな石(イリューシャが埋葬してほしいと願った場所。教会の墓地に埋葬された)に集まる。そこでアリョーシャは町を出ていくつもりだといい、彼を忘れないようにしようと皆にいう。「イリューシャは善良でかわいらしい少年で永久に尊い」「消えることのない素晴らしい記憶が永遠にぼくらの心の中に生き続けますように」「きっとぼくらは蘇る」。この説教に感動した子供たちは「カラマーゾフ万歳」と唱和する。
(多くの人が感動するこのシーンで、俺は逆に不安に襲われたのだった。というのは、ある誰かを偶像に祭り上げ彼を結集のための道具にすることはとても危険なポピュリズムだから。すでに死んでいる人は生きている人の賛美に反論できない。イリューシャだってアリョーシャがいうような「かわいらしい素晴らしい少年」といっていいほどのことをしてきたのか。自分を覚えていてほしいとはいったが、実体からかけ離れた姿に理想化されることは望んではない。でもそれにイリューシャは異議を唱えられないので、アリョーシャやコーリャの思想や理想のために勝手に改変させられる可能性がある。日本の右翼が特攻で死んだ若者を「英霊」を宗教的な存在にすり替えて、軍国主義と皇国イデオロギーを賛美しているように。アリョーシャらは善意であるのかもしれないが、善意であるかどうかは行動が正義であることを保証しない。
加えて、コーリャが「自分の命を真実にささげることができたらと願っている」「人類全体のために死ねたら」「イリューシャを生き返らすことができるなら、なにもかも投げ出す」といっているところも。これもいくつかの詭弁があって、イリューシャを思い出す人たちが人類全体にすり替えられている。イリューシャを知らない人は「人類全体」の中には入らないのではないか。むしろそのような人をコーリャは知るように強要し、受け入れない人を積極的に排除するのではないか。命を真実にささげるや死ねたらというのはとても物騒な。真実と思っていることがどれだけ正当であるかと検証しないで、命を捧げたり死ねたらと願うのは狂信者の気分ではないか。コーリャの考えは狂信的なテロに向かいそう。アリョーシャにしろコーリャにしろ、世界は個人と人類しかなくて、その間にある無数の集団や組織の存在を忘れている。世界の改革は組織や集団の改革と不可分なのに、二人はすっとばしてしまう。ユートピア的な理想を持ってそれがすぐに実現すると夢想・空想するのだね。途中で汗をかいたり、人と共同作業をしたりすることは考えない。
こういう行動性向は全体主義運動にとても近い。アリョーシャやコーリャは彼らに反対するものにきちんと向かい合えるのか。なんかスタヴローギンやピョートルのような独善的なリーダーになってしまうのではないかと恐れるのだよ。行く先は組織内部の恐怖政治と粛清。そして体制や権力に向けた大衆テロ。ああ、危ない。)
(俺がアリョーシャに厳しくなるのは、
「きっとぼくらはよみがえりますよ。きっとたがいに会って、昔のことを愉快に、楽しく語りあうことでしょうね」アリョーシャはなかば笑いながら、なかば感激しながら答えた。
にある。「昔のことを愉快に、楽しく語りあう」のは俺にとっては苦痛でしかないんだ。)
100分de名著「大江健三郎『燃え上がる緑の木』」の回で、司会がおもしろいことを言っていた。
「落語の師匠に入門するとき、師匠を尊敬しているから師匠と弟子のつながりは強くなるけど、師匠のどこを尊敬しているかは弟子のそれぞれで違うから、横のつながりはギスギスする」(超訳)。
カリスマ指導者をトップにする全体主義運動で、派閥争いや分派活動が盛んになるのはこれが理由なのだね。他にも日本型経営システムやホモソーシャルな集団でも同じことが起きている。さらにこんなことも。
「師匠がぶれなければ、弟子たちはついていく(超訳)」
師匠にあたるカリスマや指導者が健康なうちは弟子たちのギスギスは表に出てこないが、病気になったり死亡したりすると跡目争いを起こす。
アリョーシャやイリューシャを中心にして彼らの人柄や影響力でつながりを持とうとする集団の危うさはこういうところにある。なので「カラマーゾフの兄弟」続編では、集団を主宰するアリョーシャがぶれてしまってふらつくようになったとき(リーザとの恋愛であるか、イワンとの確執の再燃であるのか、別の契機でゾシマのように生きられなくなるのか)、集団のつながりは揺らぐだろう。そうするとリーダーを入れ替える策謀が起こるとか、分裂するとか、粛清が起こるとか、様々なことが予想できる(「悪霊」の第3部で起きたように)。
フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」(新潮文庫)→ https://amzn.to/3SEP249 https://amzn.to/3SC1OQW https://amzn.to/3SEYK6x
(光文社古典新訳文庫)→ https://amzn.to/3SExViP https://amzn.to/3ysORSy https://amzn.to/3ysh5Nk https://amzn.to/3SEAPEt https://amzn.to/3SCwYHL
(岩波文庫)→ https://amzn.to/3SDORWZ https://amzn.to/46yo6c8 https://amzn.to/3Yy0vX9 https://amzn.to/3yiZmYO
に続く