2024/09/19 フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 4」(光文社古典新訳文庫)第4部第10編「少年たち」 13歳にして「社会主義者」をなのる若造登場。スタヴローギンによく似た少年は続編の主人公? 1880年の続き
次の編では次兄イワンに焦点があたるが、そのまえにホフラコーラ夫人の娘でアリョーシャの許嫁で足が悪いリーザを描く。彼女もコーリャと同じ13歳。「カラマーゾフの兄弟」続編の時には、26歳の成人になっているので、主要キャラクターになっているだろう。ことに主人公アリョーシャの許嫁であるとすると、アリョーシャの動向にいろいろな影響をもたらすに違いない。
第11編「兄イワン」 ・・・ 長兄ドミートリーが逮捕されて2か月がたっている。グルーシェニカはしばらく病床に伏していてが、久しぶりにアリョーシャが見舞いに行くと、「不退転の決意」「深く思いつめたような表情など持ち、すっかり変わってしまった。グルーシェニカは警察にいるドミートリーに差し入れに行くと、食物を捨てグルーシェニカを怒鳴ったりする。それが繰り返されてグルーシェニカはまいっていた。アリョーシャとイワンとカテリーナが金を出し合ってドミートリーに弁護士をつけたことも気にかけている。そのドミートリーは「人殺しはしていないが、餓鬼のためにシベリアに行く」と決意している。グルーシェニカはカテリーナに敵対心を持ち、イワンに不信感がある(のちにホフラコーラ夫人はカテリーナもドミートリーの後を追ってシベリアに行くつもりであるとアリョーシャに伝えた)。
アリョーシャはリーザに呼ばれたので訪問したら、ホフラコーラ夫人につかまってしまった。おろおろする夫人は「リーザをアリョーシャに任せる」といい、裁判で証人になることを気にしている。そしてグリゴーリー犯人説を唱えたり、ドミートリー犯人説になったり。「みんな心神喪失を起こしている(から殺人が起きた)」。ここの夫人のおしゃべりとそれを聞かされるアリョーシャの忍耐は「とんちんかんなユーモア」の場面。読者もいらいらするだろうとほくそ笑むドスト氏を思い浮かべながら読みましょう。夫人によるとイワンがリーザをなんどか訪ねてきていて、リーザはヒステリー発作を起こしたという。
夫人の長広舌を振り切ってローザの部屋にはいる。リハビリが進んで(カテリーナがモスクワから呼んだ医師が診察した)歩けるようになった。彼女の様子が一変している。リーザ「アリョーシャの奥さんになるのを断ってよかった。あなたは夫に向かない人(神がかったようなリーザの予言はあたるのだろうなあ。好色な一家の一人であるアリョーシャはそれに苦しむのだろう)」。アリョーシャ「リーザにはなにか意地の悪いものとなにか率直なものが同居している」。リーザは耳を貸さずに一気にしゃべる。「幸せになりたくない。誰かにいじめてもらいたい。家に火をつけたい。退屈。私が金持ちで、みんなが貧しくてもいい。金持ちでも貧しくても人を殺すかもしれない。他人をコマのようにくるくる回して、鞭でぶってあげたい。どこにも何ひとつのこらせないようにする。何もかも消えたらせいせいする。良いものを押しつぶしてあげたい」。アリョーシャは「人間には罪を好きになる瞬間がある」とかわす。リーザは悪魔の夢を見るという。十字を切れば悪魔は遠ざかるが消えることはなく、ずっと監視している。興奮してユダヤ人が子どもを磔にして虐殺したという話をするが、これはドスト氏の反ユダヤ主義の現れ。自分を軽蔑するかをアリョーシャに尋ねたそばから、軽蔑されるのは素敵という。リーザは「私を助けて」と懇願するが、同時にイワンに書いた手紙をアリョーシャに受け取らせ、必ず渡してと命令する。
リーザの気の変わりやすさや衝動性に面食らうのであるが、そこは14歳という年齢をみよう。そうすると、秒単位で感情が変転していった同年齢の自分の姿をみいだせるだろう。彼女の自己破壊衝動や自己棄損願望、それを他人に向けた破壊衝動も、思春期の不安定さが現れたものとみたい。自我が確立していきながら、自分の価値が低いように思われて、といって明るい未来が開けているわけではなく(彼女の家は資産を持っているが、自分は足が悪い)、いま-ここにいることが不安で不快。それに彼女の境遇では同年齢の友人がいないので、一緒に遊んだり悩みを打ち明けたりする共同体体験もない。母もあの調子で心底は打ち明けずらい。鬱屈している感情を発散させる相手がいないのだ。なので、許嫁にさせられたアリョーシャは格好の相手になっているのだが、彼のキャラクターではリーザに父親のように接するので打ち解ける相手にはなれない。リーザはとても寂しい子。
そこにイワンが現れる。リーザにとっては話し相手になる二人目の男。考えていることが近しい。それだけでなく、アリョーシャのように達観していなくて、エネルギッシュに熱弁をふるう姿はリーザがこれまで見たことがない男の姿だ。リーザが感情的に発する言葉のいちいちを否定したり注釈したりするのも、リーザの前では起こらなかったことだ。これまでリーザは移り気なわがままを言うことで他人を支配しようとして母やアリョーシャには成功してきたが、イワンには通用しそうにない。見たことがないタイプの男にリーザが惚れることはありえそう。アリョーシャへの当てつけになるという計算もあるかな。
(そうすると、イワンと同じような選民思想や全体主義志向、他人への加虐趣味をもっているものにはコーリャとリーザがいることになる。この三人が13年後には秘密結社を作っているかもしれない。イワンに足りない組織化や線電力は、若い二人の力(コーリャの弁舌とカリスマ性、リーザの他人依存と支配)が補うだろう。そうすると、ピョートル@悪霊が構想した「五人組」のバージョンアップ版が生まれるかもしれない。一方、シベリアで苦しんだドミートリーは支援するカテリーナとグルーシェニカらといっしょに人類愛を持つ共同体を作っているかもしれない(ラスコーリニコフとソーニャが夢想したような)。アリョーシャは兄たちがそれぞれ組織化した社会変革を求める運動に巻き込まれのだろうなあ。「悪霊」ではピョートルのインターナショナルな革命運動とシャートフの宗教的愛国運動の間では対立が生じて相争うことはなかったが、「カラマーゾフの兄弟」続編では起こり得そうだ。ドミートリーもイワンも全体主義運動を起こすことになるというのが俺の見立てだが、この運動をつぶすには民衆や人民の対抗運動が必要になる(21世紀の反差別の運動が個人の集合体として行われ成果をあげている)。単独者であることを選択するアリョーシャには対抗運動を作る気はないだろう。善人でイノセントなアリョーシャは単独で対抗できるのだろうか。それこそ「大審問官」の「彼」を繰り返すことになるのではないか。)
(この続編の妄想は亀山郁夫「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」(光文社新書)とはずいぶん違うところに行ってしまったな。俺はドスト氏の主要テーマは神と悪魔、善と悪の葛藤という二元論にあるのではなく、いかに社会を変革するか、そのためにいかに人間は「踏み越え」を行うかにあるとみている。なので、去勢派や鞭身派というカルト宗教にはあんまりこだわらない。自分なりに格闘して「罪と罰」を読んだあと、亀山郁夫「罪と罰ノート」平凡社新書がちっとも参考にならなかったので、あんまり他人の評論は読まないようにしている。)
フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」(新潮文庫)→ https://amzn.to/3SEP249 https://amzn.to/3SC1OQW https://amzn.to/3SEYK6x
(光文社古典新訳文庫)→ https://amzn.to/3SExViP https://amzn.to/3ysORSy https://amzn.to/3ysh5Nk https://amzn.to/3SEAPEt https://amzn.to/3SCwYHL
(岩波文庫)→ https://amzn.to/3SDORWZ https://amzn.to/46yo6c8 https://amzn.to/3Yy0vX9 https://amzn.to/3yiZmYO
2024/09/16 フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 4」(光文社古典新訳文庫)第4部第11編「兄イワン」(承前) 「お前のやりたいことを代わりに俺たちがやったのだ」という大審問官の論理でイワンはスメルジャコフに追い詰められる 1880年