2024/09/20 フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 3」(光文社古典新訳文庫)第3部第9編「予審」 好色で金に執着していたドミートリーは逮捕されて神を愛している自分を発見し苦しみを引き受けることを決意する 1880年の続き
「カラマーゾフの兄弟」は好色な父親フョードルを息子たちの誰が殺したのかという探偵小説のテーマで語られることが多い。それは象徴的な「父殺し」、子による父の乗り越えで小説の問題の中心に突き刺さているのだが、第3部までを読むと、子どもたちがいかに改心するか、過去の自分を反省して新しい人間になろうとするかというテーマに興味が向いた。すでに大地を抱きしめたアリョーシャが「生涯変わらない確固とした戦士」として生まれ変わった。自分はもはや生きていてはならない下劣な卑怯者であると自任していたドミートリーがだめな人間であっても生きていけると確信でき、苦しみを受け入れる準備が整った。残るイワンとスメルジャコフはどのような改心をするのかが、第4部で描かれるだろう。
でもドスト氏の仕掛けは複雑怪奇なので、改心が一度で済むはずはない。「カラマーゾフの兄弟」の続編があったとしたら、この兄弟たちはふたたび改心するかもしれない。ことに全体の主人公であるアリョーシャが「父殺し」を実行するだろうと予想されているので、「生涯変わらない確固とした戦士」も新たな敵に対抗する行動の人に変容するのかもしれないのだ。いや、流刑されたドミートリーも囚人たちとの生活によってどのような考えを持つようになるかは予想がつかない。犯罪者の群れの中で堕落する可能性もありそうだ(他人に影響されやすいので)。
第4部
第10編「少年たち」 ・・・ 新キャラ登場。コーリャ・クラソートキン13歳(でも13歳といわれると向きになって「あと2週間で14歳」と言い返す)。この「社会主義者」を名乗る若造は後で検討。まずはストーリーを追う。
イリューシャがアリョーシャに石を投げつけた(第2部第4編「錯乱」)あと、発熱し急激に体調が悪化する。ことに彼を気落ちさせているのは、スメルジャコフが針を混ぜたパンを愛犬ジューチカに食わせるを一緒に見ていたこと。ひどい苦痛を追って逃げ出し姿を見せなくなったことを後悔している(皆が幸福であるために苦痛を耐えている一人の幼女をイリューシャはほったらかしにできないということだ)。コーリャは同じ予備コースに編入してきたイリューシャがいじめられているのをかばってきたが、このことを知って絶交を言い渡した。自暴自棄なイリューシャはコーリャの太ももにナイフを軽く突き立てた。すぐに寝込んでしまったので、仲直りする機会を持てない。コーリャも傷ついたものを気にかけている。
スネリギョフ一家はカテリーナが支援するようになり(同じく「錯乱」 の編でスネリギョフ退役大尉はカテリーナの施しを侮辱といったが、アリョーシャの予言通り受け入れた)、修道院を出て平服になったアリョーシャが一家の世話を見ている。そこでアリョーシャに接することにした。アリョーシャは13歳のコーリャを対等に扱ったので、「ぼくらは仲良しですね」と意気投合。自宅で飼っているペレズヴォンをいなくなった愛犬ジューチカだとして元気つけようと計画する。それはうまくいき、コーリャと一緒に集まった子供たちも、スネリギョフ大尉も精神障害を持つその妻も喜ぶ。しかしアリョーシャは渋い顔をしている(この親密な集まりは、第3部第8編「ミーチャ」が催した大宴会・どんちゃん騒ぎの対比になっている)。
カテリーナが手配した高名な医師は往診先がひどいあばら家だったのに立腹し、しかしちゃんと診察して余命いくばくもないことを告げる。すでにイリューシャも覚悟していて「ぼくのことを絶対忘れないで」「散歩した大きな石のそばにぼくを埋めて」と願う。コーリャたちは「必ずここに来る」といって家を出る。
スネリギョフ一家はカテリーナの慈善によって危機を脱した。医師が勧める転地療養や入院をすることはかなわないにしても、ともあれ生きていくことができる。ドスト氏は辱められ虐げられた人たちをよく描くのだが、彼らを救う方法はあまりない。金を持っている人が慈善を行うのを推奨する。これは、チェルヌイシェフスキーが「何をなすべきか」でヴェーロチカが試みたこととは正反対。すなわちヴェーロチカは裁縫する仲間を集めて集団経営をし、資金がたまると服飾店を作る。このモデルが成功すると、集団経営したものを独立させて、事業を拡大する。そうすると賃金が上昇し、雇用が創出され、貧困者が安定した生活を送ることができる。女性はこういう起業と集団経営のアイデアをもっている。チェルヌイシェフスキーはそこに可能性を見出したが、「水晶宮」を嫌悪するドスト氏はこのような社会改良プランを持たない(唯一あるのは「罪と罰」でラズミーヒンが出版社を起業することだけ)。人類を愛する夢想はするけど、その実現のために汗をかくのは嫌いなので、具体を検討することがないのだ。
それは「虐げられた」イリューシャを囲むように生まれつつあるアリョーシャとコーリャら子供たちの友愛の共同体でも同じ。イワンの問いに対するアリョーシャの答えは、社会のために虐げられている人と一緒にいる、だった。でもアリョーシャとコーリャのやり方はもっとも虐げられた人を利用するものではないか。イリューシャの肺病は気の毒、でもアリョーシャに石を投げつけたり指をかんで傷つけたりと悪ガキでもある。彼の心(とくに傷つけた愛犬に対する改心)を持ち上げるのは彼の聖人化になるのではないか。友愛の共同体が「現在」やっていることを正当化する手段にしてしまいそう。下のコーリャの性向もあって、この友愛の共同体はいつ「五人組@悪霊」に転換してもおかしくない。
そのコーリャであるが、頭のよいませた悪ガキ(もうすぐ14歳になる13歳だからね)。すでに「社会主義者」を自称し、「民衆といるのが好き」「民衆を信じている」という。社会主義になれば、みんな平等になり、法も宗教も結婚も好き勝手なものになる、古典語(ラテン語)は治安の手段で民衆の能力を鈍らせると夢想する(ポピュリズムのためにこんないい加減なことをいうやつがたくさんいたのだろうな)。子どもたちのなかではカリスマ的なリーダーになっていて子供たちは魅了される。街に出ると、「民衆」に積極的に話しかけ、機嫌よく挨拶する。
でもこれらの行動の具体例を見ると、13歳の「中二病」罹患者が大人をからかっているよう。過去にコーリャがからかったのを覚えていて彼に絡んできた若い商人に「サバネーエフを知っているか」と問いかけて煙に巻く(ここはドスト氏の「とんちんかんなユーモア」を楽しむシーン)。アリョーシャがイリューシャを見舞っているのを知ると「センチメンタルな真似事」と揶揄しながら探りをいれようとする。イリューシャの家を出た後にアリョーシャに論争を挑むのも、大人を虚仮にしたい「反抗」のようだ。あいにくアリョーシャはコーリャを一人前の大人として扱って「抱擁」してしまったので、コーリャはアリョーシャに心酔するようになる(そういう父以外の大人への依存や甘えもこの年齢にはありがち)。
このあたりはほほえましいが、自慢げに語るエピソードには危険な香りがする。すなわち市場で鶏を売っている教育を受けていない若者を言葉巧みにそそのかして、売り物の鶏の首を落とさせた。済んでしまってから若者は激怒するが、コーリャは手を出していないので、言い逃れをしてその場を去る。ここでわかるのは、コーリャの弁舌や立ち居振る舞いは他人に強い影響力を持ち、自発的にコーリャの言いなりになるようにする能力をもっていること。カリスマであるとも、詐欺師であるともいえそう。こういうキャラをドスト氏の小説に見出すと、すぐにスタヴローギン@悪霊を思い出す。彼もまた、自分で手を下すことなく他人を言いなりにする力を持っていた。この力をもっていることをコーリャはたぶん自覚している。それが彼の自信のもとになっているのではないか。(くわえると、コーリャはスネリギョフ家の足の悪い女の子を気に入る。これもスタヴローギンとラスコーリニコフと同じ性向)。
コーリャは積極的無神論者。神に仕えるアリョーシャに「神に逆らう気持ちはない。神は単なる仮説にすぎない。世界の秩序のために神は必要。ヴォルテール(有名な積極的無神論者)みたいに神を信じなくても人類を愛することができる。キリストはぼくらの時代なら革命家の仲間に入って、目覚ましい役割を果たしただろう」という。コーリャには選民思想の萌芽がありそう。「ロシア人は矯正の必要があれば矯正される。ドイツ人は絞殺さなくてはならない」「ロシア人は全世界から失われている。それならこの世の秩序をぶち壊してやれという気持ちになる」と世界転覆の欲望を隠さない。13歳のコーリャには世界をぶち壊す具体的な方法は思いついていないようなので、いずれイワンに会うのではないか。そのとき、イワンが主張することを受け入れるのではないか。宗教が包摂した国家になり、「不死に対する信仰(すなわち神への信仰)を根絶すれば、あらゆる生命力が涸れはてる、そのとき不道徳はなくなってすべて(人食いでも)許される。無神論者には悪事が許されるどころか、もっとも賢明な結論として認められる(第1部第2編「場違いな会合」)」に大喜びしそうだ。そして新しい人間になった少数者が低俗化した大多数を支配する社会を肯定し、罪のない人間(とくに子供)が他人の代わりに苦しみを受ける状況に怒って罪のない人間を苦しめる凡俗者を排除することを行いそうだ。イワンの理屈に従えば、無神論者には不道徳はないので、なんでも許されるからだ。
書かれなかった「カラマーゾフの兄弟」の続編では、スメルジャコフに代わってコーリャがイワンの思想をグロテスクに変形して、他人を憎悪し暴力行為を辞さない人へと自らを「踏み越え」させていたのかも。これはイワンの思想を延長するだけでなく、スタヴローギンの人格や能力を使って、ピョートル@悪霊やラスコーリニコフの願望を具体化することでもある(という具合に「地下室の手記」から始まった地下室の思想や社会変革の意思は、「罪と罰」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」で一貫したテーマ。次第に思考が深まっていくのがわかる)。また、スタヴローギンやラスコーリニコフとの親近性は「自殺」を問題にするのかもしれない。
とはいえ、この編に登場するコーリャを自立した人間、確立した思想の持主とみるのはよくない。「小英雄」にもあったような思春期によくみられる行動をカリカチュアにしたのだとみよう。
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2024/09/17 フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 4」(光文社古典新訳文庫)第4部第11編「兄イワン」 思春期のリーザは気まぐれで、他人をいじめ、他人にいじめられることを望む 1880年に続く