2024/09/27 フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 2」(光文社古典新訳文庫)第2部第5編「プロとコントラ」から「大審問官」 全体主義運動が演出する「奇跡・神秘・権威」が大衆を支配する 1880年の続き
第6編「ロシアの修道僧」 ・・・ 死にゆくゾシマ長老(といっても65歳は21世紀から見ると、とても若い)は修道院の人を集めて最後の挨拶をかわした。いっしょにいたアリョーシャはその時の経験と過去の話からゾシマ長老の一代記と談話をテキスト化する。最後の挨拶をそのまま書き留めたものではない。自分のみたところ、3部構成になっている。
第1部は入信のきっかけ。信心深く他人に謙虚な兄の影響をうけた。家族が先立ちひとりぼっち。士官学校を出て将校になり、ある娘との三角関係で決闘をすることになった。前日に従卒を殴りつけたが、どうも気にかかる。その夜天啓が訪れ回心となった。従卒に謝罪し、決闘ではピストルを空に向けて撃った。この振る舞いは将校からバカにされたが、ただちに退役し修道院入りすると宣言してからは、だれもが「神がかり」扱いした。
(決闘でピストルを空に撃つのはスタヴローギンもいっしょ。スタヴローギンはニヒリズムのせい。ゾシマは人類愛のせい。)
第2部。修行中にある日、謎の訪問者がやってきて、長い話合いをなんどもする。彼のロシア社会分析は、孤立・自己喪失・自分の穴に閉じこもり他人から遠ざかる・自分から人々に背を向け人々を遠ざける・全体から切り離され人間や人類を信じない・金と権利を喪失することをおびえる(これはモッブ@アーレントの分析に一致する。資本主義化と国内植民地の形成による差別国家が原因なんだろうな)。これは兄弟愛による一体化で克服できると考える。ゾシマはなぜ抽象的な話ばかりなのかといぶかんだが、一月後に訪問者は告白する。過去に金持ちの未亡人を殺し下男に罪を押し付けた。疑われることさえなかったが、下男が病死してから不眠になった。殺したこと罪を押し付けたことに良心の呵責を感じはしないが、その後結婚した妻と子供らに知られるのがつらい、妻と子供が苦しむのに耐えられない。きちんと苦しみたいが告白できない。ゾシマは「告白しろ」と忠告する。そうしようと決意して出ていった訪問者はまた来た。しばらく黙ってから「二度目に来たことを忘れないでくれ」と言い残す。訪問者の告白は信じられず、裁判にもならなかった。のちにゾシマがなぜそういったかと尋ねると、「私は君を憎んだ。二度目は君を殺しに行った」と答えた。訪問者はすぐに病死し、町の人々は訪問者を苦しめたとしてゾシマを憎んだ。
(この挿話に強い関心をもったのが江戸川乱歩。随筆「スリルについて」で熱心に語り、長編「吸血鬼」の冒頭をパスティーシュにした。この部分は、妻に自殺された男の煩悶「おとなしい女」の続編ともみえる。)
(犯罪者に自白しろと勧めるのは、ラスコーリニコフに対するソーニャ、スタヴローギンに対するチホン僧正に次いで三人目。ラスコーリニコフはソーニャを憎んだことがあり、スタヴローギンはチホンを再び訪れることはなかった。訪問者がゾシマを憎むのは、告白する不利益を受け入れるまでの心理過程としては当然。この訪問者が犯罪者としてあるのは、未亡人を殺し下男に罪をなすりつけたことを反省していないし、良心の呵責も感じていないこと。ラスコーリニコフもそうだったし、ドスト氏の男たちは女性や下男など反抗してこない弱い者に暴力をふるうことを当然としている。これはどうにも認められない。訪問者が苦しむのは妻と子供が自分の恥で苦しむことになるだろうことに耐えられないから。ラスコーリニコフと同じく未来に起こるかもしれない苦痛を心配しているだけで、世間や社会から指弾されること、バカにされること、笑われることのほうを犯罪に対する罪と罰より多く苦痛だと考えている。これは社会性を欠如した倒錯だ。
さらにこの挿話でいやな気分になるのは、犯罪者に自白を勧めたものが社会から指弾されること。正義を実現しようとするものが、かえって社会から不利益を被ることが起こる。ここでは(それなりに)社会的な名士の訪問者が犯罪を自白することで、その共同体の名誉を傷つけたのが引き金になった。怒りのむける先が不正義や悪にはならなかった。結果、ゾシマはその町を出る。ゾシマは修道僧になったので、共同体の余所者だから、出ていくことができた。共同体の中にいて共同体から嘲笑され罵倒され差別されるものはでていくことができない。ずっと不利益を被る。ドスト氏の小説にはそういう「虐げられ辱められた人々」がたくさんいるが、彼らを救済しようとするものはほとんどいない(アリョーシャがスネリギョフ家に関与し続けるのは珍しい例外。ドスト氏も過去のキャラのやり方ではうまくいかないと考えたのか?)
第3部。談話と説教から。自由は隷従と自己喪失なので、神への献身が大事。この徹底で、民衆が正教ロシアとなり、厳正な分配が行われる。地上で自らを滅ぼしたもの(自殺者)は哀れである。
(最後の引用をみると、スヴィドリガイロフと彼に凌辱された少女、キリーロフ、スタヴローギンと彼に凌辱された少女らはゾシマ長老の相談会にははいることができなさそう。)
(ゾシマの説教はまだあるけど、自分にとって重要なことはこのくらい。ドスト氏はたいてい否定で自分の考えを書いてきたが、ここは珍しく肯定で書かれている。「大審問官」にあるような否定によって大衆を抑圧するのに対し(「死の家の記録」などでさんざん見てきたロシアの現実)、肯定によって民族を高めていくことを目指している。別に指摘があるように、ドスト氏は理想を実現するために汗をかくことは好きではないので、ゾシマ長老にも具体的なプログラムはない。「大審問官」の迫力に圧倒されると、ゾシマの言葉は弱く思われる。なので、ゾシマはアリョーシャに下界に降りることを命じて、具体的な運動を考えさせようとしたのかも。)
(ゾシマは子どもの飲酒を憂いている。実際に、この時代には子どもの飲酒が社会問題になっていた。これをやめさせるには、労働状況の改善、賃金アップ、居住環境の改善などが有効なのだが、ゾシマ長老はそう考えない。人々の意識変化を期待してしまう。)
2022/06/17 フリードリヒ・エンゲルス「イギリスにおける労働階級の状態」(山形浩生訳)-1 1845年
2022/06/16 フリードリヒ・エンゲルス「イギリスにおける労働階級の状態」(山形浩生訳)-2 1845年
その日の夕にゾシマ長老は逝去した。
この編は否定ばかりだった前の「大審問官」に対比するように、肯定を描こうとしたものだろう。あいにくその意欲とは別に、どれも力弱い主張になったし、「良い話」にしようとした第2部「謎の訪問者」も問題だらけになってしまった。
〈参考〉
「ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」には「大審問官」と長老ゾシマの話が出てくる。ギリシャ正教の側からみるとき、「大審問官」は西のキリスト教による非難であり、神を理知的・観念的にとらえるものである。それに対し、ゾシマ長老および周辺の人々はギリシャ正教を体現していて、それは生活をすべて宗教とすることによって神を体験し、いつくかの改心を経ながら神に近づく道である。」
2015/01/16 高橋保行「ギリシャ正教」(講談社学術文庫)
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2024/09/24 フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 3」(光文社古典新訳文庫)第3部第7編「アリョーシャ」 一本の葱が差し出され受け取ったアリョーシャは「生涯変わらない確固とした戦士」に生まれ変わる 1880年に続く