2024/09/30 フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 2」(光文社古典新訳文庫)第2部第5編「プロとコントラ」 イワンの長広舌。肯定しているのは誰で、否定しているのは誰? 1880年の続き
イワンが作った物語詩「大審問官」を検討。編のタイトルは「プロとコントラ(肯定と否定)」だが、ここでは何が肯定され、何が否定されているのか。

ころは16世紀、スペインのセヴィリア。この時代は異端審問と魔女狩りがもっとも高揚したころだった。日々、密告に基づく投獄と拷問、形だけの裁判、火刑が行われていた。その被害者は数十万人とも数百万人ともいわれる。また、カソリックとプロテスタントの宗教戦争や内戦もあり、大量虐殺が頻繁に行われていた。宗教的な不寛容が最悪な事態を招いていたのだった。それを主導していたのが、ローマの教会であり、各地の王権だった。力のあるものが貧困者やマイノリティ、女性に向けてヘイトクライムを仕掛けたのである。また、この時代はルネサンスにほぼ重なるのであるが、古典復興とは裏腹に学者、知識人を宗教的な不寛容によって弾圧し、時に異教徒扱いして火刑に処した。
スペインは異端審問が厳しく行われたところ(中世12世紀に出た異端が審問や魔女狩りの遠因になっている)。今日も百人が処刑された。そこに15世紀現れなかった「彼」(ドスト氏は名指ししていないが、ここではイエスとしよう)がやってくる。ひと言もしゃべらないが、ひとびとはすぐに「彼」であるとわかり、後をつけ奇跡を願う。それを見たセヴィリアの大審問官は「彼」を捕えさせ、地下の牢獄で二人きりになり、なぜ現れたのかと尋問するのである。
この大審問官の語り(論理、知識、迫力)に圧倒されるのであるが、そのまま受け取るとドスト氏の仕掛けた罠にはまってしまいそう。というのは、この語りは、1.小説のキャラであるイワンが、2.大審問官に象徴されるローマを騙って、3.「彼」イエスと、4.人間・大衆を弾劾するという構造になっている。ドスト氏自身はこの4つのレベルを縦横に行き来して、そのどれをも批判している。なので、大審問官が指摘することだけを検討するのでは、読みは不十分になるだろう。異端審問で毎日百人を焼き殺す大審問官も悪であるのだ。この悪も検討しないといけない。
大審問官がいうには、教会と異端審問所はイエスの教団の延長にあるが、イエスがやろうとしてできなかった(ないし中途半端にした)人間を自由にして幸せにすることを達成した。いまさらイエスのいうことに人間は耳を傾けないし、「われわれ」が作った王国の邪魔である。というのも人間はもともとかよわくいやしく、いくじなしでいじましい。人間は囚人になりたがるので、自由を与えようとしても、自由を苦痛に感じるだけ。イエスが自由を与えようとしたのは人間を愛していないかのような行為だ。「われわれ」はイエスの狂気に使えるのが嫌になった。従順な人間の幸せのために、従順な人間のもとにもどった。
イエスは荒野で悪魔の誘惑を退けた(マタイ4 1-11、マルコ1 12-13、ルカ4 1-13)が、イエスの答えそのものが欺瞞である。石をパンに変えろという誘惑に人はパンのみに生きるにあらずといったが、まず地上のパンがないことに人間は不満である。自由であってもパンをもたらせてくれない。イエスの約束した天上のパンは地上のパンに匹敵しない。だから「われわれ」は地上のパンを与え食わせてやった。「われわれ」は人間の重荷を軽くしてやり、「われわれ」の許しを得れば、罪さえも許されるものとした。だから人間は進んで奴隷になり、苦痛から解放されたその状態を幸せと思っているのである。「われわれ」は新しい塔をつくったのだ。
しかし、「われわれ」にも欺瞞がある。というのも、地上のパンを与えるためにイエスに従順であるとうそをいっている。「われわれ」は人間に君臨し寄せ付けないが、そうではないとうそをいっている。それにイエスが与える自由はイエスに異議を称える反逆者をつくってしまう。「われわれ」は「われわれ」を愛し、大喜びで受け入れる万人を幸せにする。イエスは選ばれた少数の民の王国を作るのであるが、何十億の民の幸せに対する数十万の受難者となる。イエスは「われわれ」の邪魔をし、火炙りにするのがふさわしい。
できるだけ翻訳文を使うようにしてまとめてみたが、俺のつたない要約では大審問官の異様さはわからないので、ぜひ数時間を作って本文を一気に読んでみよう。異端審問で人々を拷問し虐殺する大審問官はこの世の悪で不正義そのものである。そのようなジェノサイドを合理化・正当化するための言説として巧緻に作られたのが、「大審問官」であることに注意しよう。彼は近代の基本的人権の尊重という概念を共有していないし、中世やルネサンスの法意識でも無実の人を殺しているのだ。
(「彼」を逮捕したのは、「彼」の後ろに多数の群衆が集まっていて、「彼」の行く後をおいかけていたからだった。権力が行う大衆運動に加わらず、自発的に人々が集まるのは体制に従わなないことであり、いつ権力に歯向かうものに転化するかわからない。そのことを全体主義や独裁は恐れる。なので、大審問官は大衆が蜂起する前に、「彼」を予防拘束した。大審問官は「彼」と思想対決するために捕らえたのではない。きわめて政治的な行動だったのだ。)
さて、「われわれ」は異端審問所を作り、当時の王権を超える権力をふるったローマ教会、カソリックを指している。大審問官のいうように、イエスの教えを継承する教団として作られた。でも、「われわれ」の言をなぞれば、もともとはイエスのいう自由を広げる活動をしてきたが、あるときから地上のパンと幸せを約束する組織に変わってしまった(たぶんパウロが教団を作った時だ。一方、マグダラのマリアを中心にする女性伝道集団はローマとユダヤ人によってつぶされる)。これを俺なりに翻訳すれば、イエスの言う自由は信仰の自由であるが、思想の自由と政治に参加する自由を含んでいる。自分や他人の思想を検討し誤っていると思うことは指摘し批判し変更する、それによる自己変容をいとわないこと。くわえて、他人の意見を聞き尊重する共同体に参加することで、政治的な活動をして、そこに自由を感じるようになること。これらがイエスのもともとの考え。それが教会に組織化されると、自由は大審問官の言うように異議を唱え反逆するものを作る。西方教会と東方教会は距離が離れていたので分裂は大きな問題にはならなかった(そのかわり千数百年の無交流になった)が、同じ場所に生まれる異議申立者や反逆者に対しては弾圧と殺害で対抗する。その時には巨大な組織は自由を獲得する闘争をやめて、地上のパンを与え幸せをもたらす統治に変わった。そこでは功利主義が優先され、迷える一匹の羊の面倒を見ることより、九十九匹を食わせることが大事になった。でも地上のパンを工面するには、生産が足りなかったり、それまでの施しの量では不満を持ったりする。これに対処するのはやっかい。なるほど、大審問官のいうようにイエスの狂気に仕えるのがいやになるはずだ。
(さまざまな良君が生まれては、変化しない大衆や人間、常に満足しない大衆や人間に仕えるのに飽きて、暴君に変貌するのはよくあること。その心理と同じことを大審問官は言っている。ここで深読みすれば、大審問官は初出の百年前のフランス革命を見ているかもしれない。革命の遂行者は王政や封建制から人民を解放し自由をもたらそうとしたが、地上のパンは不足し政治と経済の反逆者が出てくると、恐怖と暴力で支配するものに変化した。アーレントが「革命について」でいうように、革命が平等を目標にすると、リソースの不足と分配の失敗で、かえって自由を侵害するようになる。大審問官は中世・ルネサンスの人だが、言っていることは近代でも現代でも通用する。)
大審問官はイエスのあとではなく、悪魔のあとをついて新しい塔をつくったという。そして知恵と科学がこの支配を確保するという。「われわれ」はここでローマ・カソリックだけでなく、ヨーロッパ全体の暗喩となった。「新しい塔」というのも、パリ万博で作られ、資本主義と民主主義の象徴である「水晶宮」である。というわけで、大審問官が「地下室の手記」の語り手から綿々と続く反西洋・反科学の系譜に立つ人物であることがわかる。悪魔の言うことを聞いて世界を統一する事業が進むが、同時に何十万の受難者がでて、互いに闘争するというビジョンをもっている。これは旋毛虫が繁殖して取りつかれた人々が互いに争うというラスコーリニコフの夢であるし、自殺をしようとする男が宇宙でみたユートピアが破壊されるという「おかしな人間の夢」1877年でもある。ドスト氏の世界変革のイメージはこういうもの。イワンはたぶん大審問官には批判的ではあっても、似たような終末イメージを持っているのではないかしら。
(「われわれ」は地上のパンを万人に与えたことを誇らしく言うのだが、この「パン」は食糧であると単純に思えない。もちろん社会のリソースとして食糧はとても重要であるが、大審問官とローマ教会はパンといっしょに教会のイデオロギーも配布していた。「人はパンのみにて生きるにあらず」を「われわれ」も実践していたのだ。教会による罪の許しとか、教会への献金や税の義務とか、少ない所有で満足するとか。地上の心配をなくすのと合わせて、進んで奴隷になるような考えを吹き込んでいった。そのような洗脳装置であって、これはのちの全体主義運動が行ってきたことと一致する。というか、ドスト氏は全体主義運動の萌芽の時期にすぐさまもっとも重要なところを摘出したのだ。)
(大審問官を信仰の問題としてとらえるやりかたもあるが、自分はあまり関心をもたない。自分が信仰をもたず、奇跡を信じているわけではないから。なので、すこしずらして考えてみたい。大審問官は、大衆は教理の理屈ではなく、奇跡と神秘と権威で信仰するのだという。しかるにイエスは荒野での悪魔の誘惑で奇跡を退けた、それは神を退けたことになるのだという(ここはイワンの失策。大審問官の冒頭で15世紀ぶりに現れた「彼」は死んだ少女を復活させる奇跡を行っている)。なのでイエスが過去に示した奇跡を繰り返すことは「われわれ」の事業の邪魔なのだ。でも、と思うのは、「われわれ」たるローマの教会は奇跡をなんども認めてきた。奇跡によって神を信じるものを受け入れてきた。教会が奇跡に対しても欺瞞を貫くのであるが、同時に「奇跡・神秘・権威」によって大衆を扇動するのは全体主義運動でも同じなのだ。というか奇跡という一回限りのできごとをデモンストレーションにして神秘を演出し、運動に権威をつけていく。そして大衆を動員し、異端者や受難者やマイノリティを狩りだして弾圧と虐殺を行う。大審問官が見た大衆の動機は全体主義運動のリーダーや幹部がみるもので、彼らは大衆を「奇跡・神秘・権威」に弱いものにして扇動するのだ。)
では、大審問官に弾劾されるイエスは正しいのかというと、そうとは言えない。イエスは賛同する選ばれた集団をつくり、彼らが自由であるように活動した。自由であることには大審問官のいうように苦痛や屈辱、不便を忍ばなければならない。万人がすべてイエスの言う通りのことを実践できるわけではない。そういう少数者の集団であるものが、かえって万人の幸せであることを妨げる。というか少数者が権威と権力を求める闘争を必然にもとめるのだ。これはラスコーリニコフが考えた世界変革プログラムのビジョンに一致する。おそらくラスコーリニコフ同様に、神や人の掟を「踏み越え」て自由であるという苦難の道を歩くだろう。そして大審問官とローマ教会がいうように、何十億の幸せに対して何十万が支配するという世界を作ることになる。イエスの試みをマネすることは挫折させられるだけでなく、世界を分断し闘争に導きかねない(イエスその人ではなく、ラスコーリニコフのようなアンチキリストを非難)。
大審問官は大衆が嫌いなのであって、自由を与えられても苦痛にしか感じず、「われわれ」を進んで愛し、「われわれ」が地上のパンをあたえて苦痛から解放することで隷従するようになり、それを幸せと感じる。そのような認識は大審問官やラスコーリニコフらに共通する。だから大衆・人民・人間には恩恵と懲罰を施して支配するという理屈がうまれる。でも大審問官のあとの歴史を見ると、資源の適切な分配と教育で、迷妄を脱して合理的な選択をできるようになるのだ。あと強い大衆嫌悪はよういに大衆へのすり寄りに転化してしまう。人間の本質はこうだという決めつけはたいてい誤り(というか環境依存なので、どのようにでも変わりうる)。侮蔑している大衆に、受難者や異端者というマイノリティをみつけ、大衆が少数者を嫌悪・差別するように扇動する。大衆を絶えず分断して、闘争やヘイトクライムが起こるように仕向けるのだ。
という具合に、大審問官を全体主義運動の極めて速い例として読んだ。
以上の「大審問官」を聞いて、アリョーシャは「それはローマで、ロシアの正教会ではない。大審問官は無神論だ」と反論する。宗教関係者にとっては「無神論」は最大の侮辱の言葉であることを思い出そう。アリョーシャは「大審問官」によるイエスの弾劾を否定しているのだ。それは上に書いてきたことには全く関係しないロシア正教会の論理なのだろう。もちろん、アリョーシャは言葉で反論することはしなかった。イエスが一切言葉を発しないという制約を受けていたことを引き継いで、彼自身の行動によって反論することを試みるのだろう(ロシア正教自体が論理で納得するものではなく、実践で体得していくものだということもはんえいしていそう)。物語詩の最後にでてくるイエスのキスと同じことをアリョーシャは実行して「さっそく実地で盗作か」とイワンが喜んだように、アリョーシャのこれからは物語詩「大審問官」の「彼」と同じことを繰り返すことになるのかもしれない。ラスコーリニコフがアンチキリストの暗喩であったように、アリョーシャは「彼」のパロディ・パスティーシュであるのだろう。
イワンは物語詩「大審問官」でイエスを否定する異端審問所を想像した。イワンは「罪なきただ一人の人」が媒介することで人と神の乖離を防ぐことができると考えたいのだが、その「罪なきただ一人の人」を追放したのだった。過去の実績からすると、審問所の論理はこのとおりであったのだろう。そうなので、「人類の愛を癒しきれなかった神を信じていないが、悪魔の意思だけが秩序付けられている」とこの世界をみる。イワンは神によって創られた世界を受け入れられないといっているが、まさにこの物語詩が受け入れられない世界そのものなのだ。他のところでも繰り返し、最大多数の最大幸福を実現するさいに、踏みつけられ虐げられる少数の人々が放置されるのを弾劾する。特に、幼児や子どもが虐待を受けることに憤慨する。なので、人々を密告で逮捕し火刑に処す社会は全く受け入れられがたいに違いない。そのような世界を神に仕える(と自称し、実際は飽きた)一群の人が作り、決して転換・転覆できないような仕組みにしていることは誤りなのだろう。でも、イワンは不死に対する信仰(すなわち神への信仰)を根絶すれば、あらゆる生命力が涸れはてる、そのとき不道徳はなくなってすべて(人食いでも)許される。無神論者には悪事が許されるどころか、もっとも賢明な結論として認められる」と考えていて、それを実行することは、大審問官が創った世界と全く変わらない世界になるだろう。イワンの考えは神によって創られた世界を厳しく弾劾したが、同時に自分が同じ世界を創ってしまうという矛盾を抱えることになった。
そうすると、イワンは「大審問官」と自分の考えの両方をアリョーシャに否定してほしかったのかもしれない。「罪なきただ一人の人」が出てくる世界がありうると信じたいのかもしれない。そうすれば、30歳まで生き延びられれば本望というイワンの自殺念慮は「踏み越え」られるかもしれない。ローマ、カソリック、ヨーロッパ、科学を否定した大審問会を否定できれば、「生きていける」可能性がでてくるのかも。そこから、アリョーシャが30歳になった時にもう一度戻ってくるというイワンの言葉が生まれるのだろう。
(「悪霊」第2部の1で、悪魔の第三の誘惑に負けたキリストを継承したローマがヨーロッパを堕落させた、宗教が国家にならなければならないという議論をシャートフがしている。イワンはシャートフの系譜にある人。ということは、シャートフがそうだったように、イワンも粛清の対象になり、罰を受けるのかもしれない。書かれなかった第2部のサブテーマになったかも。)
フョードル・ドストエフスキー「悪霊 上」(新潮文庫)第2部1
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2024/09/26 フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 2」(光文社古典新訳文庫)第2部第6編「ロシアの修道僧」 正義を実行しようとするゾシマは町を追い出される。 1880年に続く