2024/10/01 フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 2」(光文社古典新訳文庫)第2部第4編「錯乱」 錯乱しているのはカラマーゾフの兄弟だけではない。関係者も錯乱している。 1880年の続き
さて、この小説で最も重たいところにきた。解説や評論ではかならず言及される難所。
アリョーシャは誰にでも好かれるので、人はみな本心を打ち明ける。すでにフョードルとドミートリー、カテリーナとグルーシェニカ、リーザが自分のことを語ってきた。ここでは次男のイワンが喋りまくる。イワンとアリョーシャは幼少期以来離れて暮らしてきたので、これまでほとんど会話を交わしてこなかった。初対面に等しい兄弟の会話は、神の存在と人間の愚行、その乖離をいかに縮めるか。
第5編「プロとコントラ」 ・・・ タイトルは「肯定と否定」の意味。
ホフラコーラ夫人のもとに帰ったアリョーシャはスネリギョフが金を受け取らなかった理由をこう解釈する。彼は恥ずかしがりなので、憎らしくなった。恩着せがましい目で見られるのはつらい。対等であることが大事。高貴さを証明したから、次は金は受け取るだろう。プロとコントラのひとつめ。
(これは被差別者や貧困者らが持っている感情。恩着せがましい憐憫や同情、寄り添いなどは彼らの気分を害する。そこに留意しないと、アリョーシャと同じ失敗をするし、「次」の機会は訪れない。)
アリョーシャは修道院を出たらリーザと結婚するつもりだが、アリョーシャがリーザの感情を害したので、結婚に反対する。プロとコントラのふたつめ。
ドミートリーに会いたいので、アリョーシャは東屋をのぞいてみることにしたら、スメルジャコフが下女のマリアといっしょにいてギターを弾きながら歌っていた。そしてスメルジャコフがいうには、ロシアが憎くてたまらない、ナポレオンが征服すればよかった。イワンを尊敬しているが、あの方は下男にしか思っていない。プロとコントラのみっつめ。
(スメルジャコフがロシア嫌いであるのは、出生不明でよくない噂があるために、村中の大人から差別・軽蔑されていることに由来する。スメルジャコフはヨーロッパに行きたいと願うが、これは西洋派であるからではなくロシア嫌悪の感情をはぐくめると思っているからだろう。この節ではスメルジャコフがイワンを尊敬しているという指摘が重要。)
スメルジャコフはドミートリーが町の料理店「都」に来てくれと言づけたのを伝えた。料理店「都」にドミートリーはいず、イワンが食事をしていた。イワンの誘いで、アリョーシャは遅い昼食をとる。時刻は14時ころだろうか。イワンは明日出発するという。カテリーナと話して、ドミートリーへの感情がすっかり分かった。彼女はドミートリーを愛していないが苦痛の喜びのために彼に尽くすことにしたのだ。イワンは愛しているから離れることは苦ではない。プロとコントラのよっつめ。
イワンは「世界が無秩序で呪わしくても、俺は生きていたい。でも30までには(生の)杯を放りだしてしまう」という。ここはラスコーリニコフに似ていて、少しずれている。ラスコーリニコフは生の杯を放りだしてしまっているのに生きていたいという願望が生まれたのだ。でも世界に対するニヒリズムは共有している。
昨日の晩にフョードルが「神はいるか」と聞いたのに「いない」と答えたが、今は神は存在しているが神の世界を受け入れられないと考えるようになっているという。というのはキリストの愛はこの地上では起こりえない奇跡なのに、罪のない人間(とくに子供)が他人の代わりに苦しみを受ける理屈がどこにあるのかとアリョーシャに問う。神が存在し、人を愛しているなら、この地上に苦痛や悲惨が存在するわけはない。それなのに、世界は苦痛と屈辱と残虐と虐待に満ちている。といってこの種の事件のコレクターであるイワンはいくつもの虐待、残虐行為を並べ立てる。イワンは「悪いのは人間自身」というと、アリョーシャは「幼児を虐待死した将軍は銃殺すべき…」と口を滑らす。神はいると明言した修道僧(見習い)が特定個人の対する死を望むことで、矛盾してしまったのだ。でもアリョーシャの怒りはたぶんずっと沈潜しているもので、「カラマーゾフの兄弟」第2部では主題になるだろう。ラスコーリニコフとは異なるルートで、アリョーシャは「踏み越え」を実行しなければならなくなるのかもしれない。
イワンが並べ立てる残虐。虐待行為は21世紀にもあるし、絶滅収容所の時代である20世紀には技術的な問題として合理的に「処理」させるものになった。そのグロテスクぶりと、非人間性といったら。でも、イワンの言に俟てよと思うのは、彼の話では個人と神だけがいて、どちらの立場にたつのかと答えを迫られている。20世紀の絶滅収容所をみれば、人と神の間に社会があるのではないか。虐待と残虐行為は人種や民族などのマイノリティ差別に由来しているので、21世紀に多くの国家がやっているように法の制定とその執行で抑制できる。人と神の間に、神なしで運用する社会があり、そこで解決するべき問題なのじゃないかな。
イワンが言うには人と神の乖離(というか人間の低俗化)は「罪なきただ一人の人」がつなぐことで解消されるべきというのだろう。そこで、彼は長大な物語詩「大審問官」を語る.これは別のエントリーで。
長大な話を終えたイワンは、自分は30歳まで生き延びられれば本望だが、30近くになって『杯を床にがちゃんとたたきつけたく』なったら、もう一度話し合いをするために戻ってくる、たとえアメリカからでもという。意味深長な言葉。杯は生命の暗喩。床に叩きつけるのはキリーロフやスタヴローギンのような自殺を考えているのかも。イワンが30近くになったとき、アリョーシャは自分の教団をもっていて皇帝暗殺を検討しているかもしれない(時期のずれによっては決行の直前であるかも)。アメリカはスヴィドリガイロフが行こうとした地であるので、幽霊になってでてくるということかも。第2部を構想するとき、ここは必ず反映しないといけない。
アリョーシャと別れたイワンは憂鬱な気分になって、父の家に行くとスメルジャコフが待っていた。この去勢派のような男をイワンは憎しみと嫌悪と恐怖を持ってみている。これまでさんざん話し合いをし哲学的な議論をしてきたのに、得たいが知れないのだ。スメルジャコフは不思議なことを言う。夜はフョードルは一人で寝る、世話をするのはスメルジャコフ一人で、使用人夫婦は熟睡している、フョードルが3000ルーブリの現金を隠していることをドミートリーは知っている、フョードルは秘密のノックをしないと部屋を開けない(そのしかたはこれこれとイワンに教える)、自分は癲癇の発作が起きそうで数日間寝込むことになるだろう。イワンは取り合わないでいたが、スメルジャコフは「チェルマシニャーに行くのか」と問う。イワンは「モスクワに行く(カテリーナにそう宣言しているから変更はできない)」と答える。スメルジャコフは下劣な笑みを浮かべた。
(「いまはまだひどく曖昧な」と題された章は初読ではなんのこっちゃになるに違いない。でも結末から振り返ると、スメルジャコフはここで、イワンに、父殺しができるチャンスですよ、ドミートリーを犯人に仕立て上げなさい、その気になれば手引きとアリバイ証言もしますよ、と指嗾していたのだ。その決意を「チェルマシニャーに行くのか」という問いで確認する。しかしイワンの返事はNOだった。なので、「下劣な笑み」を浮かべた。スメルジャコフはイワンとの議論で「第2編「場違いな会合」で明らかになっている、「不死に対する信仰(すなわち神への信仰)を根絶すれば、あらゆる生命力が涸れはてる、そのとき不道徳はなくなってすべて(人食いでも)許される。無神論者には悪事が許されるどころか、もっとも賢明な結論として認められる」という考えに共感、どころか心酔しているのだ。)
その晩、イワンは父の家で過ごし、翌朝モスクワに立つことにした。朝食でフョードルはしつこく「チェルマシニャーに行ってくれ」とせがむ。森の買い手がついて、契約の代行をしてほしいのだ(まあたいした用ではない)。イワンは根負けしていくことにし、馬車に乗る際にスメルジャコフに「チェルマシニャーに行く」と口走る。「本当なんですね」とスメルジャコフはきっぱりした口調で答えた。このあとイワンは気を変えモスクワに直行することにし、スメルジャコフは癲癇の発作を起こして穴倉の階段を転げ落ちて昏睡してしまい、フョードルはスメルジャコフの「グルーシェニカが来る」という知らせに心躍らせる。もうじき夜が来る...
(なんという技術がここに集約されているのだろう! こんなに微妙な章を「大審問官」のあとにぶち込んでくるドスト氏はすごい。)
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2024/09/27 フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 2」(光文社古典新訳文庫)第2部第5編「プロとコントラ」から「大審問官」 全体主義運動が演出する「奇跡・神秘・権威」が大衆を支配する 1880年に続く